
スタジオを創設することまでは決まったところで、肝心のスタジオ名称をどうしようかな、という「嬉しい悩み」が生じたのでした。もちろん、私の中では、スタジオのコンセプトのようなものは、ごく初期の段階で決まっておりました。もっと正確に申しますと、「いつか自分の理想の音楽空間が持てればいいなぁ」という夢のようなものをずっと抱いていて、そのときのコンセプトとして、ずっと考え続けていたあるキーワードがありました。
それは、Moments Musicaux ~ 楽興の時 ~。音楽は「瞬間の芸術」、妙なる響きがもたらす至福の瞬間は何ものにもかえがたい、そういうイメージコンセプトを大事にした空間を作りたい、とずっと思っておりました。ですから、3月8日の今井先生のリサイタルのアンコール曲として「楽興の時 第3番」が演奏されたときには、思わず声を上げそうになりました。これも「嬉しい偶然」 ― 感激もひとしおでした。
ただ、スタジオ名称として「楽興の時」をそのまま使うのは少し難しいかもしれないという思いがあったのも事実です。スタジオ名称には、コンセプトの明確さとわかりやすさが不可欠。雰囲気づくりも重要…などというようなことをずっと思案しておりました。そういえば、多くの経営者は、屋号等を決める際然るべきところに相談される方が多い、という話もよく聞くような…。どなたに相談すればいいかしら。スタジオの場所は京極学区、上御霊さん(注:上御霊神社という呼び名は通称であり正式名称は御霊神社)の氏子エリアだったはずだから、上御霊さんに相談してみよう…。
3月25日の大安吉日、その日はスタジオの賃貸借契約の締結日でしたが、必要手続きを終えたその足で向かった先は、スタジオのある地域の氏神さまでもある上御霊神社(御霊神社)でした。
あまり京都をご存知ない方たちには、この上御霊さんはあまりメジャーなところとは思われていないようですが、とんでもない(!)、この神社こそは、桓武天皇が平安京に遷都することになった事情そのものに直結しているまさに歴史の現場です。歴史の現場という意味では、ここから応仁の乱が始まったということも見逃せません。まさに、小学生でも知っている日本史の舞台となったところです。
少し脱線いたしますと、京都では、特に中世以来の町衆の地縁的結合の形を示すものとして、町組(学区)の概念と並んで、氏神さんと氏子との関係というものが比較的重視されているように思います。特に、氏神さんの祭礼に氏子が奉仕するという構図は、京都の至るところでよく見られるものです(最も有名な事例は祇園祭でしょうか)。観光ガイドにどこまで記載されているのかは分かりかねますが、北野社、今宮社、上・下の御霊社、祇園社…、どこの氏子になるのか、実は明確にエリア分けされています。どこの学区なのか、どこの氏子なのか、ということについて自然と意識する、これが京都に住むものの日常ではないでしょうか。
話を上御霊さんに戻しましょう。上御霊神社(御霊神社)の宮司さまに対して、尊敬するピアニストである師匠からグランドピアノを譲り受けることになったこと、これを契機に小さくても良質な音楽空間を作り、文化の交流拠点にふさわしいスタジオを出町に作ろうと思っていること、その名称を考えていただきたいこと、コンセプトのキーワードはMoments Musicaux ~ 楽興の時 ~であること、スタジオのオープンにあたってはお祓いをお願いしたいこと、をお伝えしたのでした。
宮司さまは、とても親切に対応して下さいました。お話ぶりはとても面白く、時折朱印を求める参詣者の対応をされながらも、かなり長い間にこやかに応対して下さいました。「あそこはええわぁ~。最高の場所や。緑豊かで、御所や同志社や相国寺もすぐそばや。出町は活気も個性もあって、ええとこやしな~。それに、(狂言の)茂山さん家の近所やし、文化エリアやもんなぁ~。音楽スタジオにぴったりの場所や。楽興の時いうのは、直訳したら『音楽の時』になってしまうさかい、昔邦訳するときに楽興と付けたんやろけど、今どきのスタジオの名前には、いささか硬い感じがするし、分かりにくいところもあるやろな。スタジオの名前は、時間もろたら、そのうちええ考えがふっと浮かんでくるやろ思うし、ぜひ付けさせてもらいたい」と仰る宮司さま。そのお人柄に魅せられ私は、きっと素敵なお名前を下さるに違いないと思い、楽しみに宮司さまからの連絡を待つことにいたしました。
数日後、宮司さまから私のもとにこんな電話がありました。「ピアノサロン『ミューズの微笑み』というのはどうでっしゃろ。Moments Musicaux はサブタイトルにしはったらどうやろ。イメージにぴったりや、思うんやけど」 ― 即座に私は、「いいお名前、ありがとうございます。是非そうさせていただきます。スタジオのお祓いもお願いいたします」と答えたのでした。
やはり、こういうことは然るべき人に思い切ってお願いしてみるのが大切ではないかと思っております。スタジオ名称など自分で考えればいいじゃないの、というご意見ももちろんあろうかと思います。ですが、いろいろな方々とともに、何かを作り上げていく方が、きっと喜びも倍になるでしょうし、自分ひとりで取組むよりもずっといいものになるに違いない、というのが私の考えでもあります。以前、2枚目の名刺を作ったときもそうだったのですが(思い起こせばここから始まったかもしれません)、ワクワクできるような楽しいプロセスの場合、そのワクワクを共有してくださる方の存在はとてもありがたいものなのです。