<スタジオのピアノのアクション部分です>
人間とは厄介な存在で、第三者からの助言に対して、虚心坦懐に受け入れることができる場面というものは意外に少ないと感じます。かく申す私自身もそうです。

習い事のように、上手くなりたくて教えを乞う場合でも、上手くなりたいにもかかわらず、指摘されることに対して心理的に抵抗感が生じる場合があります。

もちろん、助言を行う者と助言を受ける者との相性ということもあると思いますが、最近思うのは、助言を「受け入れる器」が十分な余裕をもった状態に整っているかどうか、ということがポイントだということです。

何かを指摘されることに対して心理的に抵抗感が生じるとき、多くの場合、受け手側の劣等感が刺激されているケースが多く、助言を与える側としては愛情からの助言であるにもかかわらず、受け取る側は心に突き刺さる攻撃と受け取ってしまったりして、助言に対して心理的にブロックしてしまうようです。その場合、不幸なことに、それ以上の上達は望めませんね。

最近分かってきたのは、上達する人というのは、自己はしっかり確立しているけれども、助言を受け入れるだけの十分な器が用意されていて、指摘に対して、まずはそれを一旦受け入れてみようという柔軟な姿勢を持った人なのだ、ということ。

かなりの時間練習しているのに上達できない場合、例えばそういう「受け入れる器」の蓋がとじられていたり、あるいは「受け入れる器」の容量に空きがほとんどない状態であったり、ということが原因の一つかもしれません。

なお、誰からの指導かということもとても大きいようです。信頼関係が成り立つか否か。同じことを指摘されているのもかかわらず、ある人の言うことであれば素直になれても、別の人だと受け入れられない。これもあるあるですよね。

ただ、「受け入れる器」が大きくなってくると、指導する人を選ぶことが少なくなってくるということも、最近分かってきたような気がします。達人ほど「全ての周りの人が師である」という姿勢になりますよね。

あと、「受け入れる器」が大きくなると、耳に痛い言葉でも受け止められるようになる気がします。もちろん、凹まないわけではない。ただ、凹んだとしても、それはそれとして、今の自分の現在地を正確に把握し、その痛みを伴ったとしても、助言を受け入れて咀嚼し、最終的には教えを自分のものとすることができるのだろうと思います。

それに、あえて耳に痛い言葉を口にする側も、それなりにエネルギーを使っているわけですよね。穏便にことを済ませている方が楽ということも多いなか、あえて嫌われ役を買って出るのって、それ自体とても大きな力が要りますし、本当に驚嘆に値することだと思います。

もちろん、この「受け入れる器」は、トレーニングで大きくできると私は思っています。このトレーニング、結局のところ、メンタルなトレーニングなのだろうと思っています。

となると、トレーニングの方向性は、単に技術の習得ということだけではなく、人間性の陶冶ということになるわけですか…。結局、昔から言いつくされたことだったりしますね。

昔の人は良いこと言ったものですね~。

…と書くのは簡単なのですが、自分自身はどうなの?と問うと、まだまだ器の小さい人間だ、と感じる瞬間も多々。他人様から向けられた言葉に抵抗を覚えることもあります。

でも、そんなとき、ちょっとだけ自分に声をかけてみたいと思っています。

「それ、とりあえず、受け入れてみたら?」