今年最後の大きなイベントであったソロリサイタルが終わりました。
お時間を作ってご来場いただいた皆さま、本当に感謝の気持ちでいっぱいです。お運びいただきまして、まことにありがとうございました。
また、今回のリサイタルについて、各種運営は全て主催者の方で対応いただきました。大変お世話になりました。厚く御礼申し上げます。
【プログラムについて】
プログラムノートとしてお配りした文章、ご紹介いたします。今回、各曲とも字数制限があり、これが結構難題だったような気もします。
★J.S. バッハ
平均律クラヴィーア曲集 第2巻 第2番 前奏曲とフーガ BWV 871 ハ短調舞曲のリズムに支えられたプレリュードは、典雅さの中にも、そこはかとない悲しみを感じさせる。深い悲しみの響きに満ちた三声フーガは、後半に至り拡大形と反行形が加わり、突如低音部に鳴り響く拡大主題によって四声フーガへと発展を遂げる。最後は圧倒的なストレッタにより、感動的な幕切れを迎える。
★W.A. モーツァルト
幻想曲 KV 475 ハ短調1785年の作。ハ短調で始まるとはいえ、想定外の転調がさまようように続き、音域的にも当時の楽器の端から端まで使われるという大胆な作品。まるでオペラを思わせるような劇的な場面転換が印象的である。曲中を通じて時折聞こえてくる「異質な響き」は、異界からの囁きなのだろうか。
★F. シューベルト
ピアノ・ソナタ 第20番 D 959 イ長調死の2ヶ月前1828年9月26日の日付をもつ三つの最後のソナタの一つ。四つの楽章からなる規模の大きなソナタで、イ長調という調性に支えられた明朗な作風が特徴。アルプスを思わせる雄大さ、運命と苛烈な葛藤、妙なる光、小川のゆらめき、至福の調べ ― そうしたものが一大叙事詩のように繰り広げられる。
事前に主催者に提出したこのような記事もご笑覧下さい。こういう事前告知のツールを適期に作って下さるのは、大変ありがたいことですね。
なお、シューベルトについては、よろしければ以下のブログ記事もご覧くださいませ。
【後半世代の学び】
さてさて、今回のリサイタルを終えて、今の心境を少しだけ。
既に後半生にどっぷりつかっていることを自覚している私ですが、後半の人生の私の課題は「大人世代の能力開発の可能性追求」であると思っています。
プルーニング(シナプスの刈り込み)が終わった脳を前提に、加齢に伴う生体の各種変性という条件下にあって、シナプス可塑性を活用して、人はどれだけ学習し、成長することができるのだろうか、というのが、私自身の問いであります。
私の場合は、これまでの人生に「輝かしい栄光」の類は皆無、学業においてもまた職業人としても何ら見るべき成果は上げておりませんし、ピアノを含む音楽の分野に至っては、どう見てもピアノが好きなだけの「凡人」。それだけに、「守るべき過去の栄光」というものに引きずられることもなく、常に、チャレンジャーになっていられる気楽さはありますね。
早熟の天才がメキメキと才能を伸ばしていく鮮やかさに比べると、この「後半世代」の挑戦は、亀のような歩みであり、躓きも多く、お世辞にも見栄えがするものではありません。
ただ、「後半世代」には、後半世代なりの戦略というものがあります。「後半世代」にあるもの、それは、これまでの人生で身につけた「学びを融合する力」に他なりません。そう、今の私にあるとしたら、この力ぐらいかな~と思うわけです。
私の関心事は、以前に申し上げたかもしれませんが、ただの空気の疎密波(縦波)である音が、音楽として奏でられたときに、人はなぜ心が動くのか、ということにあります。「心って何?」「演奏するってどういうこと?」「良好なパフォーマンスを生み出す集中力とはどういう状態?」 ― 音楽を取り巻くあらゆる事象に学びのヒントを求め、何らかを見出し、そして実践し、トライ&エラーを重ねて検証していく、それが私の後半生の方向性かな、と思っているのです。
今回のリサイタル、一年前から曲も決めて準備を進めてきたわけですが、進めてきたのは演奏技術の向上ももちろんだけれど、「音楽」に関わる事象、認知科学や生理学あたりにも相当目を配り、試行錯誤を重ねておりました。記憶の生物学的な基礎を踏まえた練習とはどういうものか、程よい集中状態 ― 自己コントロール感はありつつも自意識が背後に後退している状態 ― を保つにはどうすればよいか、運動性スキルの獲得過程と練習スケジュールをどう調整するか、自動化された動作と感覚との統合時の注意配分をどうするのか、等々。
学びの過程は、知識がなければそもそも何もできませんし、知識に触れたとしても、再現できなければ、それはただの意識的無能です。かつ、再現できたとしても、その再現性を高め、意識せずとも自動化できるレベルにまでスキルを上げるには、相当のエネルギーと時間が必要になります。シナプス刈り込みが終わってしまった脳とつきあっていくならなおさらです。
今回のリサイタルでは、私の中で幾つかの挑戦課題を設定してのぞみましたが、できたこと、できなかったこと、いろいろありました。もちろん「悔しい」と感じるところもゼロではありません。ただ、身体的なコンディションやモチベーションの維持も含め、途中相当苦しいこともありましたが、多分真剣にチャレンジしていたからこそ「悔しい」こともあるのでしょうし、チャレンジしたからこそ分かったこと、見えてきたことも多かったのだと思います。
リサイタル中、かなりの時間は「いま・ここ・音楽」に意識を戻すことができていたと思います。ただ、60分というパフォーマンスの間には、どうしても波があるようです。「調子いいかな」とつい「評価してしまうような雑念」がよぎったりすると、ほどなく隣の音を引っかけてしまったり…。あるいは、興に乗ってくると、エネルギーレベルが上がってしまって、背後に後退していてほしい自意識が頭をもたげてくる瞬間もあったり…。あと、シューベルトの第一楽章では、腕に抜け毛が落ちたことに気づいて、ちょっと気がそれてしまったり…。
持久戦における意識の制御については、ある程度訓練の方向性としては手応えもあったと思っておりますが、これこそ飽くなき鍛錬を重ねないとできないことでもあり、今回のリサイタルを教訓として、また次の学びにつなげていければいいなと思っております。
…とまあ、随分独りよがりなことを書きましたが、今回のリサイタル終了後、旧友たちとの再会を楽しむご褒美もあり、それも含めて私にとってはかけがえのない経験になりました。
本当に、多くの方々に支えられてのソロリサイタル、ただひたすら感謝するばかりです。ありがとうございました。