Komponiert in Potsdam 1789 ― 1789年にポツダムにて作曲された
これは、W.A.モーツァルトのピアノ曲「デュポールのメヌエットによる9つの変奏曲(K.573)」のタイトルの下に書かれていたものです(写真はヘンレ版)。
1789年といえば、バスティーユ襲撃(7月)を機にやがてヨーロッパ全土を巻き込むことになったフランス革命が勃発した年。もっとも、この曲が作られたのは1789年4月とされているので、そうなるとまさにフランス革命前夜、まだアンシャン・レジームの時期というべきでしょうか。
ポツダムといえば、かつて近現代史を学んでいた私は「ポツダム会談」・「ポツダム宣言」が真っ先に思い浮かびますが、もとはと言えばホーエンツォレルン家、すなわちプロイセン王国の宮殿があったところ。啓蒙専制君主としてお馴染みの、かのフリードリヒ大王(フリードリヒ2世)が建てたロココの精華サンスーシ宮殿、そして上述のポツダム会談の舞台になった夏の離宮ツェツィーリエンホフ宮殿は、いずれもユネスコの世界遺産に登録されています。
それにしても、1781年以降、故郷ザルツブルクを出てウィーンを拠点にしていたモーツァルトが、1789年にポツダムへ出かけて行った事情については、気になるところなきにしもあらず。ということで、今回は、フランス革命前夜のモーツァルトに焦点を当ててみようと思います。
ところで、私事ですが、この「デュポールのメヌエットによる9つの変奏曲」、近々ステージで弾く予定がありまして、先般曲目解説として以下のような原稿を提出いたしました。
モーツァルトが、カール・リヒノフスキー侯爵(後にベートーヴェンのパトロンとしても知られる)とともに、プロイセンを訪れたのは1789年4月。国王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世(フリードリヒ大王の甥で大王崩御後即位)への謁見を希望したモーツァルトは、プロイセン宮廷作曲家でチェロ奏者ジャン・ピエール・デュポールの口添えを期待して、デュポールのメヌエットによる変奏曲を作曲しました。まさに「ご機嫌とり」と「才能アピール」です。しかし、このとき期待した成果は得られず、一連のプロイセン行は失敗に終わります。ウィーンに戻ったモーツァルトが、借金申込みの手紙を認めていたちょうどその頃、フランス革命が勃発したのでした。
簡単に要約するなら、まさにこういう話なのですが、もう少し当時のモーツァルトをめぐる状況について書いてみようと思います。
さて、モーツァルトの晩年といえば、映画『アマデウス』でも描かれていたように、「貧困、借金、病苦のうちに死す」というイメージがまず浮かんでしまうかもしれません。この点については、音楽学者クリストフ・ヴォルフによれば、「1787年末に、ウィーン宮廷から皇帝直属の地位」(宮廷作曲家)を与えられ、年800フローリンという少なからぬ年俸も得ており、「創作に新しい視野を開こうとする戦略が主導権を握った時期」で「モーツァルトにおけるキャリアの頂点」であったという説もあるようです(※)。実際問題、宮廷作曲家の報酬の他に、レッスン代や演奏会収益、楽譜出版による収入等を含めると、当時のモーツァルトがかなりの高額所得者であったであろうことは、想像に難くありません。
にもかかわらず、1787年以降、モーツァルトは度々フリーメイソン仲間であったプフベルクに宛てて借金申込みの手紙を送っていましたし、上述のカール・リヒノフスキー侯爵からも1791年11月に借金返済を求める訴訟を起こされているほどですから、やはり経済状態としては「借金まみれの火の車」状態だったのでしょう。もちろん、こうした借金地獄は、モーツァルトの浪費癖がなせる業だったという側面もありそうです。
ただ、一つ忘れてはならないのは、1788年以降、オスマントルコとの戦争によって、ウィーン社会は経済的にも文化的にも甚大な影響をこうむっていた、ということです。当時、ウィーンの物価は高騰、演奏会機会も激減、出征したヨーゼフ2世も重病を得て帰還してくる有様でした。モーツァルトも、こうした暗い世相のもと、ウィーンでの生活に閉塞感を覚えていたのかもしれません。
なお、このオスマン帝国との戦争について少し補足しておく必要があるでしょう。実は、エカチェリーナ2世統治下のロシア帝国では、ポチョムキン主導のもと不凍港の獲得をめざして黒海方面への南下政策が展開されていました。ロシア帝国は、1783年に長年オスマン帝国の属国であったクリミアを併合しましたが、1787年に至ってオスマン帝国がロシアに対し宣戦布告。すると、かねてロシアと同盟関係にあったことを口実に、ハプスブルク帝国が参戦することになりました。今に至る悲劇の舞台の背景には、こういう歴史的な事象も存在していたのです。
さて、この当時力をつけていた北の新興国プロイセンにおいては、フリードリヒ大王時代以来、その宮廷に一流の音楽家たち(クヴァンツ、グラウン、C.P.E.バッハ等)が集っていました。そして、大王の跡を継いだフリードリヒ・ヴィルヘルム2世も、先王に負けず劣らず、その宮廷にチェリストであるデュポールを迎えてチェロを習うほどの音楽好きだったようです。
モーツァルトが、ドレスデン、ライプツィヒ、ベルリン、ポツダムを訪問したのは、1789年の4月から6月のことでした。借金まみれとはいえ、ウィーンの宮廷作曲家の地位にあった彼が、ザクセンまたはプロセンの宮廷への就職をどの程度希望していたのか、そのあたりはよく分からないところもあるのですが、フリーメイソンの盟友であった同行者カール・リヒノフスキー侯爵のつてを利用し、ザクセンおよびプロイセンの宮廷に直接アプローチして、何らかのチャンスを得ようとしたことはほぼ間違いないだろうと思います。おそらく、モーツァルトは、一連の旅で何とか「現状打破」を試みようとしていたのでしょう。
もっとも、1789年4月の段階では、プロイセン国王への謁見を求めるも、紹介されたのは宮廷作曲家のデュポールだったようです。クラヴィーアの名手であったモーツァルトが、彼の得意分野である即興演奏をデュポールの前で行ったのかどうか、これはもう想像を逞しくするしかないですね。モーツァルトは、多くのクラヴィーア変奏曲の即興演奏を行っていたようですから、この曲についても、デュポールの前で「ほら!あなたのメヌエットをこんな風に即興アレンジしましたよ~凄いでしょ~」と得意気に腕自慢披露がなされた可能性もなくはないでしょう。
他の変奏曲同様、モーツァルト自身も、この曲を出版するつもりで自作目録に加えていたのだろうと思います。なお、彼の手による自作目録には、「9つ」ではなく「6つ」の変奏曲と記載されていました。残念ながら、この曲は、生前には出版されず、死後の出版となりましたから、オリジナルの楽曲がどのようなものであったのか、今となってはよく分かりません。ですが、そもそも即興演奏が前提にあるのでしょうから、そのあたりはあまりこだわりすぎずに大らかに楽しむことが肝要ではないかと思います。
(※)参考文献クリストフ・ヴォルフ『モーツァルト 最後の四年 ― 栄光への門出』(訳:礒山 雅・春秋社・2015年)