モーツァルトよりも短い31年の生涯だったシューベルト、その最後の年(1828年・31歳)に書かれた作品群こそ「音楽史上最大の奇蹟」であることは、今さら説明の必要もないでしょう。ピアノ関係だけでも、3つのピアノ曲 D.946、3曲のピアノ・ソナタ D.958 ~ D.960 、四手のための幻想曲 D.940 ― 目下この曲の両パートを練習中 ― 、人生の嵐(四手) D.947 、ロンド(四手) D.951 といった傑作・大作がずらっと並びますが、歌曲集「白鳥の歌」に、ミサ曲第6番 D.950 に、弦楽五重奏曲 D.956 に … と列挙するに及んで、「起きていた時間全て作曲に充てていたとしても、これだけの量と質のものを、死期迫るなか生み出せるとは、やはり人間業とは思えない」と思ってしまうのです。
ちなみに、私が若い頃から最も好きなシューベルトの作品は、「白鳥の歌」の中に含められることもあるザイドルの詩による歌曲 Die Taubenpost D.965A (鳩の便り)で、詳しいことは分かりませんが、ほぼシューベルトの絶筆に近いものとされていて、この曲の穏やかで素朴な抒情性にずっと心惹かれてきたのでした。また、学生時代愛聴していた Tantum Ergo D.962 も、思えばシューベルトの死の直前の作品ですが、まさにこの歌詞 Tantum ergo Sacramentum Veneremur cernui のように、大いなる秘蹟と思わずにはいられない美しさに満ちています。
そんなシューベルトの最後の年をテーマにした演奏会が行われる! しかもしかもこの出演者たち!!! ― 何としてでもレリンゲンの音楽祭に行かなければならないと思ってしまったのは、考えてみれば当然の帰結であったわけです(詳しくは前回の記事をご覧下さい)。
◆出演者:
Paul Badura-Skoda
Luz Leskowitz
Aylen Pritchin
Vladimir Mendelssohn
Ingemar Brantelid
David Geringas
◆タイトル:
Schuberts letzte Werke
◆曲目:
Franz Peter schubert (1797 – 1828)
Sonate für Klavier Nr. 20 in A-Dur, D.959 Entstehung zwischen Frühjahr und September 1828
Sonate für Klavier Nr. 21 in B-Dur, D.960 Vollendet am 26. September 1828
Quintett für zwei Violinen, Viola und zwei Violoncelli in C-Dur, Op.163, D.956 Vollendet im September 1828
どれも4楽章まである長大な曲ばかり、まさに「天国的な長さ」 … のはずだったのですが、日頃シューベルトの長さに慣れてしまっている(!)私には、本当にあっという間に終わってしまった本番でした。正直、あと3回同じプログラムを連続して聴いても全く平気です!!!
そしてこの本番を一言で表現するなら ― まさに奇蹟 ― としか言いようがないのです。どこが奇蹟だったのか? ― と問われましても、なかなか説明が難しいのですが。前半プログラムについては、前回の記事でもご紹介した通り、何か崇高な存在が天から降臨し、90歳の大御所バドゥラ=スコダを通して何かを伝えてくるような、そんなまさに神の世界が出現していたのでありました。そして、後半プログラムについては、これはもうまさに至高の演奏で、私が今まで聴いたこの曲の演奏で最高峰ともいうべきすばらしさでした。
ところで、前回の記事でも申しました通り、今回リハーサルの見学を許されたこともあって、後半の弦楽五重奏については、リハーサルも含めた全ての過程を目の前で拝見することができました。世界最高水準の演奏の現場に身を置くことができたことは、何ものにも代えがたい経験で、これこそまたとない学びの場となりました。シューベルトがシューベルトとして最も美しく響く ― 口で言うのは簡単なことですが、この最も実現困難な命題に音楽家としてどうアプローチしていくのか、というプロセスに立合うことは、音楽を学ぶ者にとって、全ての瞬間が新鮮な発見に満ちたもので、おおいに触発されました。
結局のところ、分かったことは、求められるアゴーギク、デュナーミク、アーティキュレーション、フレージング … そういったもの全てを自然にかつ自在に表現する技術を持つ者だけが到達できる境地が存在する、ということでした。これこそが究極の表現技術、すなわち音楽が生命力をもって息づくための技術であり、これらは気の遠くなるような鍛錬を積んで「体得」するものだということでした。文字通り「体得」という言葉が相応しい技術 ― 即ち身体の中に宿る類の技術です。
以下は、そんな究極の技術を有する彼らの音楽に接した私が、旅先で書き留めておいたメモの一部です。箇条書きで何のことやらさっぱり分からない … という感じかもしれませんが、後日のヒントとして記録を残しておこうと思います。実際に学んだことはもっと膨大、かつ上述の通り身体感覚に関する話でもあるので、言葉にするのは極めて難しいものがあるのですが、ご興味がおありでしたら、ご笑覧下さい。
- 魅力的な三連音符には常に拍動が存在
- ストラディヴァリウスが例えばウィーンフィルにおいてコンサートマスターの楽器となる所以はまさにその音の特質にあり
- チェロのピチカート表現が音楽の方向性を決める ― 軽やかさと響きの豊かさ
- Adagio の持つ緊張感は チェロ×2 という編成によるところも大きい
- Scherzo の躍動感は常に回転のエネルギーに支えられている
- 音楽の流れに即した fz ― fz ならいつも同じというわけではない
- Allegretto の alla breve の持つ基本的な感覚 ― 舞曲のようなリズム感
- アクセントはつかないけれども魅力的なアウフタクトをめざすべし
- 穏やかさ、典雅さ、心地よさ、素朴さ、叙情性