<会場となったレリンゲンの教会>
<会場となったレリンゲンの教会>

今年の5月下旬、北ドイツのシュレスヴィヒ・ホルシュタイン州にあるレリンゲンという小さな街で行われた音楽の祭典 ― 「五月祭」に行ってまいりました。レリンゲンはハンブルクからSバーンで数十分ほどの郊外の街。その中心にあるルター派の教会が今回の音楽祭の会場でした。

地元の方のお話では、「この教会のアコースティックな響きは秀逸で、今でこそ最新設備の録音スタジオが使われるのが普通だと思うが、以前は、ドイツの名だたるレーベルの録音会場としてよく使われたものだ」ということでした。正八角形の独特な構造をもつ美しいバロックの空間の響きは、豊かでありながらとても柔らかく、まさに天上の音楽が奏せられるにふさわしいものでした。

<八角形の美しい天井>
<八角形の美しい天井>

今回の音楽祭、以前から時々室内楽(室内楽における伴奏法)のレッスンをしていただいているザルツブルクのヴァイオリニスト Luz LESKOWITZ 先生およびその周辺の方々から、このイベントのことを教えていただいたのがきっかけで訪問することになったわけですが、こと今回の渡独については、スタジオ創設のときと同様、ほぼ「即断即決」で決めたのでありました。関係者から教えていただいた概要をちらっと拝見した次の瞬間、「何としてでも行かなければならない」と思ってしまったのです。確かに、よくよく考えてみても、御年90歳のウィーンの巨匠 Paul BADURA-SKODA によるシューベルト最晩年のソナタ2曲( D.959 および D.960 )連続演奏など、「この機会を逃すと…」という注目プログラムですし、リトアニア出身のチェロの巨匠 David GERINGAS や、ヴィオラの名手 Vladimir MENDELSSOHN 、ロン・ティボーの覇者たち Solenne PAIDASSI & Aylen PRITCHIN (このお二人はカップルでもあるそうで)等々、綺羅星のようなメンバーが集まっているわけですからね。ですが、実際のところ、そこまで詳しく考える暇があったわけではありません。出演者のリストをちらっと3秒ほど見ただけで、「これは何としても行かなければならない」と自分の中ですぐに結論が出てしまったのでした。これは、後から考えても不思議なことではありますが、実際に音楽祭のすばらしさに接してみて、あらためて「直感たるもの恐るべし=予想を超えた邂逅」だったと我ながら思うのであります。

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さて、今回、演目・奏者とも充実の内容であったことは言うまでもないのですが、ルッツ先生はじめとした関係者のお力添えもあって、本番のみならずリハーサル(一部非公開のものを除く)の見学を許可されたことは、私にとって大きな学びの機会となりました。大御所中の大御所クラスから、次代を担う若手アーティストまで、さまざまな年代の「天才」たちを間近で観察することができたのですから。これは、本当に得がたい収穫だったと思います。ということで、今日のお題は「才能の諸相」について。目の前で繰り広げられた「天才」たちが描き出す世界を、幾つか綴っていきたいと思います。

【本番にこそ輝く人たち】

凡人である私には到底理解しがたいことなのですが、こういう方々は、本当に少ないリハーサル回数だけで本番を迎え、その本番がリハーサルと比べても格段にすばらしい、という人種のようでいらっしゃいます。リハーサルですと、巨匠さまたちであっても、ときには「ごめーん、落ちた~」ということはありますし、私が聞いても「そこはちょっとな~」と思う場面も、わずかではありますが遭遇することがありました。さすがに「そこはちょっとな~」的演奏をしようものなら、共演者たちからの鋭い突っ込みや教育的指導が即座に入りますけれどね。ですが、凡人と違うのは、「すぐさま修正できてしまう」&「本番は何事もなかったどころか別次元のように輝いてしまう」ということなのです。

【まさに何かが降りてきて】

今回の音楽祭の最長老にして、特別ゲスト的存在でもあるバドゥラ=スコダ。音楽祭でのプログラムは、シューベルトが死のほぼ2か月前に書いたという長大なピアノソナタの2曲を連続して弾くというもの。いずれも4楽章まである大曲で、トータルで90分コース。にもかかわらず、御年90歳のこの大御所先生は、暗譜のまま平然と一気に弾き切っておいででした。お若い頃からのレパートリーではあるのでしょうが、それにしたところで、この事実だけで十分驚嘆に値することです。そして、一曲目( D.959, A-dur )の演奏後、控室に戻ることなくピアノの前に座られて、聴衆に向かって語りかけられたお声には、90歳とはとても思えないほどの張りが感じられました。日本同様高齢化が進むドイツですから、聴衆たちの年齢層も相当高かったわけですが、大巨匠のこうした姿に元気づけられた方はきっと多かったことでしょう。

しかし、私が今回最も感動したのは、そういうことではなく、何と申しますか、人智を超えた次元の話でした。後半の D.960, B-dur の演奏中のことですが、私は舞台上に「まさに何かが降りてきている」と感じたのです。何か崇高な存在が天から降臨し、この老巨匠の身体を伝わって、あたりに光の粒子として放出されるような、そんな感覚です。まさにこれは神様の領域。弾くほどに不思議な力に満ち、輝きを増していかれるその姿を拝見しているうちに、「ああ、この方は音楽を奏でるためにこの世に生きることを運命づけられた方だったのだ、これは神様のご意思なのだ」という思いにかられ、しばらく呆然としてしまったのでした。

【圧倒的な何かを放つ】

リトアニア出身のチェロの名手ゲリンガスといえば、チャイコフスキーコンクールの覇者にして師匠ロストロポーヴィチの芸の継承者、現代音楽にも精通した幅広いレパートリーの持ち主、指揮者としても指導者としても活躍中 ― そんな話は私も知っていたわけですが、私の目の前に現れたこのチェロの巨匠の実像は、そんなありきたりな説明では、到底言い尽くせないものでした。 どちらかというといぶし銀のような芸の持ち主ではないかと思っていた私にとって、そんな先入観を打ち破る圧倒的なゲリンガスの芸に触れたこと、これこそ今回の旅で最も衝撃的な事件であったと言っても過言ではありません。

リハーサルでは、ゲリンガス60歳のお誕生日のために書かれたセンデロヴァスの「 DAVID の歌」について、共演者たちに対し作曲者の意図も含めて説明される様子を拝見することができました。ときに自らタクトを振りながら、難解な現代曲をすっきりと解明してみせる姿には、抗いがたいほどに人を引き付ける特別な力がありました。これこそが、名指揮者で名指導者とされる所以でしょう。

さらに、シューマンの Fantasiestücke (幻想小曲集)では、深みのある音色をベースに、精妙さとスケールの大きさを併せ持つ自在な表現力が存分に発揮され、終曲 Rasch und mit Feuer に至っては、生命力溢れる見事な躍動感に長年蓄積された芸の厚みが加わってまさに圧巻。そこには、思わずひれ伏してしまいたくなるほどの「圧倒的な何か」があたり一面に放たれていました。これこそ「ゲリンガスというカリスマ」というべきものなのかもしれません。