<ステージ上のピアノ>
<ステージ上のピアノ>

先般、私どものところに、このようなご質問がありました。今日は、そのご質問に対する私どもの見解と、その見解に関する詳細説明についてご紹介しようと思います。

ご承知の通り、音響と聴覚は、私どもの大きな関心事項であり、大学(京都市立芸術大学)にまでわざわざ勉強に行った分野ですから、いただいたご質問は私どもにとって非常に興味深いものでした。

以下、ブログへの掲載用に、少し表現を変えているところもあります。また、個人を特定できないような表現にしております。その点ご了承下さいませ。


【ご質問の内容】

自宅での練習(グランドピアノ使用)時や、先生のレッスン室では、自分の弾いている音がよく聞こえるのですが、ホールで弾いていると、自分の演奏が聞こえにくく、ずっとソフトペダルを踏んでいるようにしか聞こえません。

訓練によって聞こえるようになるものでしょうか。それとも、響いている音を想像することができるようになるだけでしょうか。


【見解の骨子】

ホールでの音の聞こえ方 ― 聞こえにくい&ソフトペダルを踏んだように聞こえること ― については、物理現象としても音響学的に説明がつく事象と考えられます。そして、そういった条件下であっても、より意識的な聴取訓練をすることは、これまた脳の働きにより、ある程度可能であろうと思料します。

ただし、聞こえの問題は、加齢や病気等の影響も受けますので、そのあたりは、ご自身の状態をよく観察なさっていただきたいと思います。あまりも違和感があるようであれば、診療が必要になるケースもある、ということも合わせてご承知おき下さい。


これからお話することは、「聞こえ」という個人差のある領域についてのお話ですので、仮に、同じ場所で同じ条件で同じ音を聞いたとしても、ご自身が感じていらっしゃる聞こえ方と、師事していらっしゃる先生の聞こえ方、そして私どもの聞こえ方が違う可能性は十分にあり得るという前提でお読みいただければ、と存じます。

以下、大変長くなりますが、ご笑覧いただければ幸いです。


【空間による音の聞こえ方の違い】

まず、同じ楽器を用いて同じ条件で音を鳴らしたとしても、その音が鳴らされている空間の条件によって響きが変わる(響きが違って聞こえる)、ということは何となくご想像がつくところではないかと思いますが、そこで何が起こっているのか、ということについて少しご説明いたします。

音は、ご承知の通り空気の振動ですが、その振動が実際に聴覚系に伝わるまでの過程で、発生した振動は、建物の壁や床、家具その他いろいろなものにぶつかりますから、その結果、反射・屈折・吸音・回折といったような現象が起こっています。

実は、ある音を聞いているとき、人間の耳では、いろいろな方向から進んでくる無数の振動をキャッチしており、反射・屈折・回折といった現象によるごくわずかな伝達速度の違いも含めて、極めて微細なところまで感知しています。

一般的に、ご家庭の部屋やレッスン室の部屋で楽器を鳴らしている場合、楽器から周囲の壁・天井・床等までの距離はそれほど遠くありませんから、実際には、楽器から直接聞こえている音(直接音として最短距離で聞こえてくる音)に加えて、ごくわずかに遅れて聞こえてくるさまざまな反射音(間接音)の成分も多く耳に届いてしまっています。

これが、大きなホールということになりますと、周囲の壁や天井までの距離が長いですから、その分、耳に届く反射音のエネルギー量は小さくなり(減衰がありますから)、しかもかなり遅れて耳に届くことになります。残響として知られるホール独特の響きの正体は、音が直接音として耳に到達したあと、かなり遅れてわずかに聞こえてくる間接音の集合体なのです。

さて、ご質問にもありました、舞台で弾いているとき自分の音が聞こえにくいと感じるのは、一つ考えられることとして、普段狭い部屋で楽器を弾いているときには、直接音に加えて相当程度のエネルギー量の反射音を合わせて聞いているのに対し、舞台上では、直接音以外の音のエネルギー量がかなり減じられて耳に届いている、ということではないかと思います。

もちろん、これはあくまでも一般論であり、実際には、それぞれの空間の条件(反射・遮音・吸音等の条件)によって聞こえ方はかなり変わってきます。

【倍音の聞こえ方の違い】

ソフトペダル(シフトペダル)を踏むと、音に含まれる高調波成分(倍音と呼ばれるもので基音の2以上の整数倍の周波数成分)がかなり少なくなっていることが知られています。上述のように、舞台上で弾いているときは、楽器の直接音以外の成分がかなり減じられていますから、その分聞き取れる倍音の成分も減じられると考えられます。その結果、ソフトペダルを踏んだような聞こえ方になる、ということもあながち間違いであるとはいえないと感じます。

ちなみに、この倍音の聞こえ方の差異こそが、音色の差異の正体です。ですから、ソフトペダルを踏んだ場合、単に音量が下がるだけではなく、確実に音色も変わっておりまして、より柔らかい感じで聞こえます。

なお、後述しますが、加齢等による難聴等の場合、高周波数帯域の難聴の事例が多いとされています。

【音響放射による聞こえ方の違い】

実は、楽器には、それぞれ音響放射特性というものがあります。例えば、ヴァイオリンのような弦楽器の場合、奏者の後方では音が聞こえにくい、とされていています。実際、室内楽等をやっていると、特に舞台上で顕著なのですが、例えばヴァイオリン・ソナタのピアノパートを弾いている奏者からすると、一緒に演奏しているヴァイオリン奏者の音が本当に聞こえにくいと感じます。なぜなら、ピアノの奏者は、ヴァイオリン奏者の後方で演奏しますから。

ところが、ヴァイオリンの場合、奏者の前方方向には、相当程度音が響いていたりするのです。ですから、舞台上では聞こえていないように思えても、客席ではしっかり音が鳴っているということが起こっていたりします。

【カクテルパーティー効果の存在】

さて、空気振動という物理現象が、聴覚器を通って脳に神経信号(電気信号)に変換されて音として認知される、これが人間の聴覚系の働きですが、実は、その認知の過程で、脳はいろいろな処理を行うことが知られています。その面白い一例としてご紹介したいのが、カクテルパーティー効果の存在です。

カクテルパーティー効果とは、たくさんの人がそれぞれに雑談しているなかにあっても、自分が興味のある人の会話、自分の名前などは、自然と聞き取ることができるという音声の選択的聴取のことです。これ、ご経験おありだと思います。

つまり、人間は、音を聞くときに、単に物理現象としての音をそのままとらえているわけではなく、ある意味恣意的に音を聞いている、ということでもあるわけですね。

で、例えば合唱やオーケストラの現場において、特定のパートや楽器だけを選択的に聞く場面を想像なさってみて下さい。明らかに、一定程度訓練による効果が認められると考えていいのではないでしょうか。

あるいは、音楽を専攻する方であっても、自分の専門の楽器と専門以外の楽器の楽音については、たとえば微妙な音色の差異を聞き取る能力は違うとされています。ということは、やはり、一定程度訓練によって、この選択的聴取能力の向上がはかられていると見ることができると思います。

既に述べた通り、舞台上では自分の演奏する楽器の音が、普段の演奏環境(多くの反射音を同時に聴いている環境)と比べると相対的に聞き取りにくい条件にあります。

まして、先ほどご紹介したヴァイオリン・ソナタなどの室内楽作品を舞台で演奏する場合、楽器の音響放射特性も加わって、しばしばアンサンブルの相方の音が聞こえにくい状況に置かれます。

でも、演奏者は、客席にいらっしゃるお客さまには、アンサンブルとして美しいバランス(例えば適切な音量バランス)をお届けしなければならないわけですから、物理的には聞き取りにくい条件が揃っていたとしても、そこを補完できる能力として、こうした選択的聴取能力というものが必要になってくる、と思われます。これは、アンサンブル奏者の場合、絶対身につけなければならない能力であると思われます。

まさに、客席のあの場所で、私(たち)の演奏がどのように響いているのか、という具合に遠いところに意識を向けて聴取する能力を磨く、ということだろうと思います。

【聞こえの問題】

最後に少しだけ。

先ほど、少し言及いたしましたが、加齢やその他の条件で、難聴ということはよく起こります。これは、耳の中にある蝸牛という器官にある有毛細胞(音の伝達経路において重要な働きをする細胞)の損傷による場合等があるとされています。

聞こえにくいという感覚がある場合、その違和感が大きいようであれば、診療を受ける必要が生じる場合もあるかもしれません。これも、あくまでも一般論ですが。


何かのご参考になれば幸いです。