<レオポルト・モーツァルト「ヴァイオリン奏法」>

こういう言葉聞いたことはないでしょうか。「モーツァルトは実は難しい」とか、「シンプルで音が少ないものほどごまかしがきかない」とか。あるいは、「モーツァルトって、子供がくったくなく弾いていると魅力的だけれど、大人になると怖くて弾けないのよね」とか。

これ、私自身も否定するつもりはありません。子供の頃は、結構多くのソナタ等を弾いていたと思うのですが、大人になってからというもの、つい最近まで、ごまかしがきかないモーツァルトを弾くのは、正直「おそれ多くて無理!」と感じていました。

実際問題、「モーツァルトは難しい」と思われる方は多いらしく、大人はもちろんのこと、子供さんでも、だんだんと習熟度が上がって来られた中高生になると、苦手意識を持たれるようになる方もいらっしゃるようです。事実、最近お目にかかったスーパーキッズさんともいうべき優秀な子供さんの親御さんから、こんなお話をうかがったりしておりました。

― 前のコンクールの課題曲は、シベリウスだったので、(本人は)楽しんでいたようだし、弾きやすそうにしていたのですが、どうも、モーツァルトが課題曲だと弾きにくそうにしているのです。どうしたらいいのかわからないようで。

― (コンクールの結果で)問題があったとすれば、ロマン派ではなくて、どうも課題曲のモーツァルトだったのではないか、という気がするのです。古典で差がつく、と先生にも言われたのですよね。

どうやら、結構広く存在していそうですよ、「モーツァルトって難しい」と思って悩んでいらっしゃる方々。

でも、ちょっと待って下さい。「モーツァルトって難しい」 ― そこで話が止まっていませんか? - どこがどう難しくて、どう対応すればよいのでしょうか。

ということで、今日は、その「難しさの正体」について、少しだけ考えてみようと思います。

ここで、一つ譜例を挙げてみましょう。これは、モーツァルトの第17(16)番のソナタ、K.570 の第1楽章の冒頭部分。ちなみにこのソナタ、パリ時代の a-moll ソナタや、 K.330 ~ K.333 (←従来パリ時代の作品群と考えられていたものの、実はそれよりも作曲年代が遅いことが確認されている)、あるいは、幻想曲とセットで語られることの多い K.457 等に比べると、リサイタル等での演奏機会はさほど多くないかもしれませんが、それはさておき…。

<モーツァルト ピアノ・ソナタ 第17番 冒頭部分 (譜例はウィーン原典版)>

この冒頭、まさにこれこそ、 Simple is the best! ともいうべき「単純さの極み」。正直、ピアノの初学者でも、音だけならすぐに鳴らせるようになるでしょう。

ところが、この単純さこそが、逆にある種の「分かりにくさ」につながっているところなのかもしれません。実際問題、どう味付けすればよいのか。このスラー一つの取扱いだって、結構気をつかいますね。ここは、アーティキュレーション・スラーとしての記載のようです。ですが、それが分かったところで、どのように弾けばよいのか…。

事実、とてもお恥ずかしい話ですが、そろそろピアノ歴半世紀になろうというこの私、先般この曲をレッスンに出したところ、冒頭部分からダメ出しの山でした。こんな簡単な音型なのに、それこそ何度も何度も弾き直さなければなりませんでした。

で、いったい何がポイントだったかと申しますと、一言で言うならば「アフェクト」を適切に表現できているかどうか、ということでした。

お聞きになったことがおありの方も多いと思うのですが、いわゆる「アフェクト」という言葉であらわされる概念こそが音楽表現のうえでとても重要なのです。何という日本語訳がいいのでしょう?「情感」という言葉が一番近いでしょうか?

ただ楽譜に書かれている音を鳴らしたとしても、また強弱記号を意識し、速度記号を意識し、それを実践したとしても、その曲のそのフレーズに相応しい「アフェクト」が適切に表現されなければ、音楽的な演奏にはならない - とまあ、そういう話なのですね。

「要するに気持ちを込めて弾きなさい」ってこと?

間違いではありませんし、そうも言える部分もあるのでしょうが、「気持ちを込めて弾けばよい」→「感情の赴くままに弾きさえすればよい」というような、そんな甘い話ではありません。世の中には、自由な表現と称して「感情の赴くまま弾くことが表現である」と勘違いされている方も結構多そうですが(何を隠そう若い頃の私もそう勘違いしておりましたが)、どうやらそう問題は単純ではなさそうですよ。

では、実際に「アフェクト」について細かく見ていきましょうか。

ヴォルフガングの父親であるレオポルト・モーツァルトは、名著「ヴァイオリン奏法」の中で、このように記しています。

最も難しい独奏曲や協奏曲を演奏するよりも、すぐれた作曲者の曲を、指示に従って正しく解釈し、楽曲のアフェクトを適切に表現することの方が、より音楽的なのである。難しい曲を演奏するのには、多くの頭脳を必要としないものだ。器用にポジションを考えるだけの頭さえあれば、最も難しいパッセージも自ずとできるようになり、後は一生懸命に練習するだけだからだ。これに対して、作曲者の指示に従いアフェクトを正しく表現するのは、そう簡単ではない。あらかじめなされた注意や指示のすべてに気を配り、指示された通りに演奏するのではなく、しっかりとした感覚 Empfindlichkeit をもって演奏しなければならないからだ。表現すべきアフェクトに自らが浸り、ニュアンスをつけ、シュライファー、アクセント、強弱など、一言で言えば、趣味のよい演奏に必要なことのすべてを、健全な判断力や長年培った経験を活かして、うまく表現できなくてはならないのだ。

レオポルト・モーツァルト「ヴァイオリン奏法」(久保田慶一 訳 全音楽譜出版社 247ページ)

あるいは、カール・フィリップ・エマヌエル・バッハは、「正しいクラヴィーア奏法 第一部」の中で、次のように述べています。

しかし単なる鍵の命中名人には、聴衆の顔つきよりも耳を、耳よりも心を快い感動に導き、人の心を思うところへ引っ張っていくことの出来る人にこそふさわしい真の功績を、自分のものとして要求することは許されない。楽譜をちょっと見ただけで、その曲の真の内容とアフェクトに即した演奏をするというのは、ほとんど不可能に近いことである。きわめて熟達したオーケストラでさえ、音符からするとまったく簡単な曲のために、下稽古を何回もおこなっている。大概の演奏は、音符に命中することでしかないことが多いのであるが、それでは、たとえ和声の面で微塵もつまづくことがなくても、旋律のまとまりとつらなりがいかに大きな害を被ることだろうか。

カール・フィリップ・エマヌエル・バッハ「正しいクラヴィーア奏法 第一部」 (東川清一 訳 全音楽譜出版社 172ページ)

「単なる鍵の命中名人」ですって! ← 「鍵に命中する」こと自体も簡単ではなさそうですが、時代が下り技巧的に華やかに見える曲が増えてきた結果、「鍵に命中」しさえすれば、何となく形になるという錯覚がより生まれやすくなったのかもしれませんね。

とにかく、この古典の大家達は、超絶技巧的なパッセージが弾けること以上に、「アフェクト」を適切に表現することの重要性を強調しています。そして、「長年培った経験」・「きわめて熟達した」といった表現からも分かるように、「アフェクト」を適切に表現できるようになるには、それなりに長い期間がかかるという前提が彼らにはあったようです。

というのも、この「アフェクト」という概念、特に歌詞がない器楽曲においては、かなりの場合直感的な部分に依拠せざるを得ないところもあり、またそういう直感も非常に重要ではあるのですが、根底に膨大な修辞学の蓄積があることを踏まえておかなければならないからなのですね。

そもそも、西洋の文化圏において、音楽も修辞学も、ともに「自由七科」に数えられていて、ということについて、教科書的な知識としては知っている方も多いでしょう。でも、実際問題、それらを血肉として身につけることができてはじめて、西洋音楽の適切な表現が可能になるという厳しい現実があるのです。

即ち、「アフェクト」には「お約束」のようなものがあり、かつ、「アフェクト」を伝えるために必要な表現技術というものが厳然と存在する、ということなのですね。「お約束」を読み解くためには、もちろん、巷で言われている「アナリーゼ」は欠かせないわけですが、「アナリーゼ」をしたとしても、それらが適切な「アフェクト」の表現として結実しない限り、単なる「アナリーゼごっこ」で終わってしまいます。そうではなくて、「アナリーゼ」を通して導き出される「アフェクト」を適切な表現として伝えるために、必要とされる技術的要素を具体的に洗い出し、演奏に落とし込んでいく作業が欠かせないわけです。

上述の譜例に戻ってみましょうか。この B-dur のソナタの冒頭にどういう情感が込められるのか、ということですが、 B-dur の主和音のみで構成され、一旦下がった音域から伸び上がるように高い音域に推移していくこの音型において、「絶望のあまり濃霧の立ち込める夜半に、一人泣きながらうずくまっている」ような表現が適切であるとは、さすがに考えにくいでしょう。むしろ、「快活さにあふれ( Allegro ですから)、喜びが湧き上がってくる」ような表現の方が相応しいでしょうね。

ここで注意が必要なのは、「快活さにあふれ、喜びが湧き上がってくる」ような情感を聴き手にに想起させるためには、どのような表現上のテクニックが要るのか、ということなのです。右手はどんな音色で弾くのか、ということ一つをとっても検討すべきことは山のようにあります。キラキラ感のある音なのか、丸みを帯びた音なのか、鋭利な音なのか、滑らかさのある音なのか、粒立ちのある音なのか…。可能性は無限にあります。でも、少なくとも、くぐもったような、濁ったような、例えばターナーの蒸気機関車のような色彩ではないはず…。あるいは、左手はどのような音色で弾くのか、左右どのようなバランスで弾くのがよいのか、3拍子が円を描くように聞こえるためにはどのような抑揚で弾くのか、アーティキュレーション・スラーによって指定される抑揚をどのようなタッチで処理するのか、伸びあがっていく音の推移をどのような音量や音質のグラデーションで描くのか…等々。ここで最も重要なことは、演奏者自身がどんなに「快活さにあふれ、喜びが湧き上がってくる」ような気持ちをイメージしていたとしても、それが聴き手に伝わらなければ意味がないわけで、聴き手に伝わるためにどのような技術を選択し、洗練させていくのか、ということですね。

要するに、しっかりとした音楽修辞学上の基礎のうえに、豊かな共感力(感受性)と表現技術が加わって、はじめて美しい音楽として結晶化されるという話であり、それができる人こそがすぐれた演奏家ということになりますね。

あと、古典作品にはつきものなのですが、作曲された時代からは刻一刻時空的に離れていく過去の時代感覚(伝承されるもの、忘却されるもの、再発見されるものが混在する世界)をどうとらえるか、それらを現代という時代においてどう表現していくのか、という問題も存在しています。作曲された時代には当たり前だったことが、ひょっとすると今では当たり前ではなくなっている可能性だってあります。優れた演奏家とは、その時代の慣習を踏まえながら、作曲家が音楽に付託した情感を、我々の時代においても共感できるものとして雄弁に伝えてくれる存在である、少なくとも私自身はそう感じています。

最後に少しだけ。「モーツァルトは難しい」 - はい、決して易しくありません。往々にして、「鍵に命中」したとしても「アフェクト」が適切に表現されていないことが容易に明らかになってしまう(要するに「ごまかしがきかない」)から難しいのです。でも、よく考えてみたら、「難しい」という言葉、実は一種の逃げですよね。「難しい」という言葉で全てを片づけてしまうような感じ。そうではなくて、その「難しさの質・中身」に迫ることこそがポイントで、そこを発見し、どうアプローチするのか、その道筋を見つける力をどう身につけるのか、そのあたりに注力していく必要があるように思います。


2021年5月7日追記。

宣伝のようで恐縮ですが(いえ、宣伝です!)、「モーツァルトが難しい」と思う皆さまにこそ、味わっていただきたいのがこちら。長年ウィーンにて研鑽を積まれ、それこそウィーン古典派を長年研究された今井顕先生が、ウィーン古典派の魅力を大いに語り、奏でて下さるという贅沢企画。現在、海外からも視聴でいるページをオープンしております。予告動画は、ハイドンの演奏ですが、モーツァルトも2曲収録されています。お見逃しなく!