<上京の名桜~国宝の千本釈迦堂本堂前に咲く普賢象桜>(著者撮影)
<上京の名桜~国宝の千本釈迦堂(大報恩寺)本堂前に咲く普賢象桜>(著者撮影)

以前の記事(ピアノサロン「ミューズの微笑み」名前の由来)で、スタジオのある場所が京極学区であることについて言及しましたが、京都に住む者にとっては当たり前のこの「学区」の概念、案外他所では知られていないのではないかと思います。これでも「一応」私の学生時代の専攻は日本史ですから、今日は京都の歴史の話題を少しだけ。

実は、「学区」について昔書いていた駄文を改めて読み返してみました(以前作っていたホームページに掲載していたものですが、今は閉鎖されています)。この文章を書いてからもう15年程経過すると思いますが、どうやら基本的なところは修正する必要がなさそうだと思いましたので、以下そのまま再掲します。ひょっとすると、小学校の名称等、統廃合によってさらに変わっているかもしれませんが、その点はご了承ください。


少子社会と呼ばれて久しい昨今、京都市内の小学校もかなり統廃合された。廃校になった校舎跡に、高齢者向けの福祉施設ができたりするのを見るに及んで、少子高齢社会の到来を実感する。バスに乗っていると、最近の統合によって誕生した新しい名前の小学校の児童たちの手による書画が展示されているのを見かけることがある。そんなとき、ふとこれからの京都の小学校の概念がどのように変わっていくのかしら、と思ってしまう。

父の転勤に伴って、小学校を3つ渡り歩いた経験からすると、確かに、かつての京都市内の小学校区はかなり狭かったような気がする。事実、つい最近まで、私の自宅から一番近い小学校までは歩いて1分、次に近いのが5分、その次が10分、そのまた次が15分の距離だった。町を歩いていると、小学校がそこらあたりにたくさんあった。その昔、私自身小学校(もちろん京都以外の土地の小学校)まで片道20~25分かけて歩いて通ったことを思うと、京都市内の小学校の配置は、かなり特殊だと言わざるをえない。もちろん、今私が問題にしているのは京都市内でも、いわゆる現在の上京・中京・下京といったような洛中と呼ばれている地域で、市内の学校全てが特殊だと言っているわけではないのだが。

そういえば、洛中の小学校を「○○校」と称する習慣も、ひょっとすると他の地区にはあまり見られないものなのかもしれない。明倫校、桃薗校、乾隆校といった呼び方をするのがどうやら一般的で、そういえば乾隆小とはあまり言わないような気がする。しかも、小学校の通学区のことを「校区」とはあまり呼ばないようで、一般的に「学区」と称されているようだ。上述の三校の学区は、それぞれ明倫学区、桃薗学区、乾隆学区といった具合に呼ばれるのが普通である。

しかも、この学区という概念、実際の小学校の通学区とは必ずしも一致していないのである。特に、最近の小学校の統廃合で、すでに廃校となったりしたところも、相変わらず「学区」の概念だけは残っているらしい。事実、平成9年、上述の桃薗学区のほか、成逸・西陣・聚楽の各学区の小学校が統合されて、西陣中央小学校が誕生したにもかかわらず、今でもこれらの四つの「学区」の概念だけは残っている。あるいは、戦後の学制改革で嘉楽校が新制中学になったとき、この学区の小学生は隣の乾隆学区の小学校に通うことになったが、たとえ乾隆小学校の児童であっても、属している「学区」は相変わらず嘉楽学区だった。

この「学区」という概念、実は、単なる小学校の通学区域をさすものではなく、むしろ地域的まとまり(=コミュニティの単位)を意味している。むろん、小学校そのものは、全国の小学校同様、初等教育機関であることには変わりないのだが、同時に、小学校は(というよりも、小学校が置かれている場所は、というべきか…)、学区のシンボルでもあるのだ。私の記憶が正しければ、(少なくとも十年ほど前の話だが)市立図書館の閲覧カード作ってもらうときに、自分の住んでいる「学区」名を書かされたような気がする。あるいは、今でも毎年秋には、各「学区」の運動会が開かれ、各町内の体育振興会役員がお世話することになっているはずだ。そしてこの体育振興会は、それぞれの学区名を冠するのが普通である。

このちょっと不思議な地縁的性格を持つ「学区」というものがどういうものであるのか、これらについては、すでに多くの解説書があるので、興味のある方は、是非そちらもご参照いただきたいが、こういう話をはじめて聞く方のために、ここでごくごく簡単な解説を付しておこう。

そもそも、京都に64校の小学校が置かれたのは、明治2年のことで、これは全国で最も早い近代小学校の事例であることが知られている。これらの小学校は、明治維新の際に、各町組に町組会所兼小学校という形で建営され、明治2年の町組改正によって、上京一~三十三番組、下京一~三十三番組の各町組に一校ずつ設置されたものを嚆矢とする(ただし上京・下京ともに一校ずつ協立校が出来たため上京・下京各32校計64校となり、のちに幾つかは中学校となった)。当初は、上京○番組小学校、下京○番組小学校といった具合に「番組小学校」の呼称で呼ばれたが、どうやら昭和四年頃に、これらの学区にそれぞれ新たな名称が付されるようになったようである。

町組会所兼小学校であったこれらの小学校は、単なる教育機関ではなく、会議場、府員出張所、警察署等地域の窓口的役割も果たしていた。各町組の小学校には、望火楼も設置され、町組防火の拠点にもなっていたそうである。今でも、小学校の隣に消防分団が置かれているところがあるが、おそらくその名残であろう。また、小学校の運営は、町組の構成員たちの負担によっていたようであり、明治初年には小学校会社まで設立されていたらしい。こうした地域との強い結びつきを持った小学校は、いつしか「町組」のシンボル的存在になっていった。

ところで、おのおのの小学校の基盤となったこの「町組」とは何だろうか。これについても、多くの研究があり、参考となる文献が多数存在するので、詳細はそちらに譲ることにして、ここでは本当に基本的なことだけ紹介しておこう。

町組は、応仁の乱後あらたな都市空間の発展の中でその成立を見たようである。町組とは、地縁的な生活共同体である町がいくつか集まって結成するグループのことで、私が聞いた話によれば、天文年間(16世紀前半)の古文書には、その存在を裏付ける記載が見られるとのことである。こうした一種の地縁的集団の連帯によって、京の町衆たちの自治的な活動がなされてきたことは非常に興味深い。

ちなみに、町組を構成する町とは、道をはさんだ両側町のことである。町の成立基盤である道こそは、町の一種のパブリックな空間であり、例えば祭礼等がとり行われる場でもあった。祇園社や今宮社の山鉾の祭は、そういう町の活動のあり方が今に伝えられたものなのである。

考えてみれば、都市という空間は、時代とともに変化していくものである。長い歴史の中で、京都も時代の要請にしたがって、その姿を時々刻々と変えてきた。生活文化などというものは、過去にだけ存在するものではなく、長い年月をかけて継承され、変えられ、そしてまた新たに生み出される性格のものだと私は思っている。こうした気の遠くなるような時間軸を頭の隅におきながら、京都の小学校の今の姿を見つめることは、とても面白い課題だと思ってみたりもする。

思えば、もう随分前から、京都の小学校そのものは、かつて用紙や教科書類まで町組で段取りしていた時代のものとは質的に異なっている。小学校そのものは、今では純粋な初等教育機関としての役割を果たしているわけで、その意味では、地縁的集団のシンボルとしての小学校という性格はとっくの昔に薄れてしまったのかもしれない。ただ、面白いのは、そういう小学校そのものの教育機能とは切り離された別の側面、即ち中世以来の地縁的まとまりについては、今日不思議に学区の概念の中に息づいている。時代とともに、世代とともに、人々の意識が変化していくなか、こうした中世以来の伝統もこれからどんどん変わっていくのだろうか。

今のところ、まだ学区の概念は根強く残っているようだ。お盆のお供えものの回収場所は、もうとっくに小学校がなくなった区域でも、いまだに旧来の学区毎に決められている。そして、お供えものを納める場所は、例えば昔の小学校の校庭だったりするわけだ。風習などというものは、そんなにすぐに廃れるものでもないのかもしれない。

参考文献:『史料 京都の歴史』(京都市編 平凡社)


そういえば、一旦は廃校になった春日小学校の跡地に、また小学校が建設されていますね。春日学区・銅駝学区あたりの児童たちが通うのでしょうかね。