自宅のピアノ(レーニッシュ)
<自宅のピアノ(レーニッシュ)>

以下は、1998年4月に東大ピアノの会OB会報誌「桃源」に寄稿した文章の抜粋です。以前は、私が作ったホームページ上にも掲載しておりましたが、現在ではサイトが閉鎖されておりますので、この度こちらで再掲します。なお、原稿の一部を改稿しております(人物のイニシャルを「某」氏と書き改めています)。


私の自宅は、京都市でもやや西北のいわゆる「西陣」と呼ばれる地域にあります。この地には、もう随分昔から(古文書で確認できる範囲では遅くとも文化年間あたりから)先祖にあたる人が住んでいたようです。そんなこんなで、3年ほど前まで、少なくとも築80年以上は経過したような古い家に、私は暮らしていたわけです。前の家は、あちこち相当傷んで隙間だらけ、良すぎる風通しに、冬などは京都特有の「底冷え」をまさにひしひしと体感できる有様でした。

震災の少し前、94年の秋の暮、さすがに住み心地の悪化した古い家を取り壊して、新しい家に建て直すことが決まりました。そして、設計士の方が持参した設計図を見たその瞬間、にわかに「グランドピアノを買う」ことになってしまったのです。グランドピアノを置くのにおあつらえ向きの洋間、「これならグランドピアノなんかも置けるわね。」というつぶやきが、次の瞬間どういうわけか「ピアノを買うことが自明のこと」になってしまったのです。どうしてこのような展開になってしまったのか、それは今もって私自身謎であります。

とにかく、その日から私のピアノ探しは始まりました。あちらこちらのショールームを次々にたずね、陳列しているピアノを片っ端から「試弾」し、営業担当にあれやこれやと自分の希望を申し述べる、といった具合で、文字どおり「ショールーム荒らし」をやってのけたわけですね。そうした一連の「ショールーム訪問」でとりわけ印象に残ったのが、新大阪駅前の「ベーゼンドルファーのショールーム」でした。

もともと私は、どちらかといえばベーゼンドルファーの音色が好きで、「スタインウェイかベーゼンドルファーかどちらか一方を選択」することができたとある仲間同士の演奏会のときも、迷わずベーゼンドルファーを選んだほどです。そのお気に入りの「ベーゼンドルファー」の「ショールーム」が、たまたまお琴の師匠の別宅(注記:ご自宅は東京)の近所にあるらしい、というではありませんか。

ものは試し、ままよ、と飛び込んだこのショールーム、さすがに世界の名品を扱うだけに、雰囲気といい接客態度といい実に素晴らしい…。そこの営業担当の方は実に親切で、当然ベーゼンドルファーなど手に入りそうもない私のようなお客に対しても、ピアノの構造やベーゼンドルファーの特徴など、丁寧に教えて下さるのでした。どれもこれも聞く話は新しいことばかり、説明を聞きながら、実はピアノという楽器そのものについて、私はほとんど何も知らなかったなあ、と反省を余儀なくされました。

そして、そのときに教えてもらったのが、「レーニッシュ」というピアノの存在でした。実はそれまで私は、このような銘柄のピアノについては聞いたこともなかったのです。その場では、「レーニッシュ」について、旧東独ライプツィヒ(追記:創業当時はドレスデン)のメーカーで19世紀前半からの老舗であること、旧東独メーカーはドイツ政府からかなりの支援を受けていること(東西の経済力格差に対する旧東独側への産業振興策)、東西の人件費の格差もあって品質の割に驚くほど安価なこと、半年後(95年の5~6月)に黒の182センチモデルを輸入することが決まっていること、等の情報を得ました。ただ、まだこの段階では、後にこの「黒の182」を購入することになろうとは、私自身思ってもみなかったのですが。

いろいろと「ショールーム」を巡り歩いていくうちに、ふと私はピアノをよく知っている人の「助言」でもあればなあ、と思うようになりました。そこで私は、高校生の頃お世話になった恩師に、「誰かピアノ探しに便宜をはかってくださるような方」を紹介して欲しい旨、相談することにいたしました。ちなみに、この恩師のもと部活(合唱部)で一緒だった先輩の一人が、第44回ブザンソンの覇者指揮者の阪哲朗さんです。

恩師が紹介してくださった方は、京都では比較的有名な楽器屋の営業担当某氏でした。この某氏は、耳の非常にいい方で、しかも楽器についても実に豊富な知識の持ち主でした。世界のピアノの系譜、流通経路、音の質…、ピアノをそれこそ20年以上も触りながら、これらのことには全くといっていいほど無頓着だった私にとって、某氏からの情報は新鮮で興味深いことばかり。すっかり耳学問をさせてもらったのでした。

そこで、その某氏に、「私の抱いているイメージに合致するピアノになかなか出会えないのですが、どのように探したらよいのでしょう」と相談をもちかけ、「深みのある音がして、柔らかいけれどもしっかり音の出るピアノ、表現の幅の出せるピアノが欲しいのですが」と希望をあれこれ申し述べたところ、某氏は即座にこうおっしゃったのです。「あなたのご希望に沿うピアノは、はっきり言って国産のメーカーに限定することは難しいのではないでしょうか。まだ外国産のアップライトの方が、国産のグランドよりもあなたの希望にあうかもしれませんよ。予算の問題はおありでしょうが、国産にこだわることなくさがしたらどうでしょうか(注:当初私はそれでも国産のピアノ、それもごく一般的なモデルを買うつもりだったのでした)。」

そうまで言われてしまった私、実のところ当惑の色を禁じ得ませんでした。「ベーゼンドルファー」クラスで最低でも650万円程度、「ブリュートナー」あたりでも400万円以上、当時勤めてまだ3年も経っていなかった私が、ほんの「出来心」でお買い物するには、限度を超えた話になってしまったのですから。こうして、「グランドピアノを買う」という私の目論見は、すっかり暗礁に乗り上げた形になってしまいました。

その後、仮住まいへの引越、引越の翌々日に発生したあの忌まわしい地震、以来交代勤務での復旧活動、古い家の取り壊し等々で、文字どおり「ピアノどころではない」日々が続きました。ただ、工務店には「グランドピアノを買うから。」ということで床補強をお願いしておりましたから、今更「グランドピアノの件はやーめた!」とも言えず…。そんな私のもとに、例の某氏から電話がかかってきたのは、震災復旧業務も一応の目途がついた95年5月のこと。

某氏からの電話は、こうでした。「日本ベーゼンドルファーが輸入したレーニッシュの黒182センチモデルですが、先日浜松に到着したそうです。そろそろ大阪のショールームに入るそうだから、一度電話して見に行ってみてはいかがですかね。182センチあれば、低音部もそこそこ響きますし、高音部はなかなか味わいのある音がしますよ。価格も当初の計画からすれば100万円ほど高いだけですし、検討をお勧めしますよ。」

何のことはない、私が半年前にベーゼンドルファーのショールームで聞いていた例の「レーニッシュの黒182」ではありませんか。「よくよく縁のあるお話だ、予算的には苦しいけれど、かき集めれば何とか払えるし、とにかく自分で触ってみてから考えよう」と思った私は、また新大阪のショールームに出かけることにしたのでした。

新大阪ショールームを再訪したのは、6月のはじめ、もう世の中はすっかり梅雨の季節になっていて、その日も生憎の雨模様でした。私は、到着したばかりの「レーニッシュ」をそれこそ心ゆくまで「試弾」しました。もちろん、比較のために「ブリュートナー」や「ベーゼンドルファー」、そしてなぜかそこに展示されていた中古の「スタインウェイ」も弾いてみました。それぞれのピアノの個性をしっかり考えながら、「レーニッシュ」を評価してみると、他の銘柄と比較してもさして遜色がないのです。確かに「レーニッシュ」の方が、「ベーゼンドルファー」の「ウィンナ・トーン」よりは地味で素朴な印象でしたが、それはそれで気に入りました。素朴であたたかみがあって、しかも新品だというのにしっかり音が鳴るではありませんか。「雨が降っていてこれだけ音が鳴るのであれば、文句はない…。ただ、小ぶりのせいか、一番下から5音ほどの響きがやや貧弱な気がするけれど…。」

思い切ってその場に居合わせたベーゼンドルファーの調律師さんに、「低音部の不満」を述べてみると、その方は即座に調節して下さったのでした。するとどうでしょう。確かに低音部の響きが変わったのです。「要は調律をこまめに行うこと、それからしっかり弾き込むことで、このピアノはいくらでもいい音を追求できますよ。もちろん新品ですから、まださほど音は鳴りません。でも、2~3年してごらんなさい。どんどんいい音になっていきますよ。」と調律師の方はおっしゃるのです。

「このピアノの音には個性がある、何といっても深みがあって素朴な音がする…、タッチが深くて表現に幅が出せる…」とすっかり「レーニッシュ」が気に入ってしまった私は、その場で購入を決意しました。いきなり「売約済」の札がかかってしまったことは言うまでもありません。

それから一週間ほどたって、「さあ、あとは資金繰りと搬入の段取りだ」ということになった段階で、また某氏から連絡が入りました。「実は、あのレーニッシュに関して、ドイツ本国から価格を下げたい旨の連絡があったそうですよ。というのも、先方では黒の182を日本に輸出するのは今回が初めてのことだけれど、品質・価格とも自信作だから日本市場での目玉にしたい、ということで、思い切った策に出たのでしょうね。」この電話一本で、実は価格がほとんど50万円ほど安くなってしまったのでした。某氏曰く「きっと貴方によくよく縁があったのでしょう。ついている人にはとことん幸運がやってくるものですよ。」

こうして、当初予算の50万円程度のオーバーで、私はドイツ製の「レーニッシュ」を手にしたのでした。50万円オーバーといえばかなりの金額に思えるかもしれませんが、実はこの「レーニッシュ」と同じ価格帯の国産ピアノのことを思えば、さして気にはなりませんでした。

以後私と「レーニッシュ」との、波瀾にみちた(?)幸せな音楽生活が始まったわけですが、それについては改めてお話する機会もあることでしょう。


言うまでもないことですが、本稿はある特定のブランド商品の宣伝でもなければ、またある特定ブランドに対する批判文でもありません。本稿では、各種ピアノのブランド名を実名で掲載しておりますが、あくまでも個人的な経験談と受け止めていただければ幸いです。

なお、この文章に記載されている商品モデルや価格については、現時点のものとは異なります。予めご了承下さい。