学生時代にはドイツ歌曲の世界に浸りきっていた私ですが、30代にさしかかる頃、「唐突」にフランシス・プーランクにめり込むようになりました。最初のうちは、このプーランクという人の「わけの分からなさ」に戸惑いを覚えたのですが、やがて「やみつき」になっていったようです。
そんなプーランクに関する古い原稿が出てまいりました。書いた時期ははっきりしているのですが、最初にどこに出したものなのか、あまり覚えておりません(東大ピアノの会のOB会報誌「桃源」だったのか?あるいは何かの演奏会の際の冊子に寄稿したものなのか?)。これも、自分のホームページに掲載していたものですが、今ではサイトも閉鎖されてしまっておりますので、ここで再掲したいと思います。
「プーランクは語る-音楽家と詩人たち」を読む
フランシス・プーランク著
ステファヌ・オーデル編
千葉文夫訳
筑摩書房
音楽家の中には、自らの音楽を語る手段として、あるいは、音楽研究の成果を世に問うため、作曲や演奏活動のかたわら、著作を残す人も非常に多い。ドビュッシーやフルトヴェングラーの著作はあまりにも有名だが、邦人作曲家あたりでも、例えば故芥川也寸志氏などは、生前相当数の著作を手がけている。
こうした音楽家の著作も、楽曲分析的なものからエッセイや交友録まで、その種類も多岐にわたっているが、その中でも比較的多いのが、回想録あるいは自叙伝的なものであろう。これは、近代以降、音楽家が一種のスター的存在となり、彼らの音楽人生に対する聴衆の興味・関心に、音楽家の側でも応えていかざるを得なくなったこととあながち無関係でもあるまい。本稿でとりあげるプーランクもまた例外ではなく、父親のごとく慕っていたシャブリエに関する本を著したほか、クロード・ロスタンとの対談集等を出している。
今回紹介するこの「プーランクは語る」は、彼の死後刊行されたものであるが、もともとスイス=ロマンド・ラジオ放送局によって生前オンエアされたインタヴューをそのまま活字化したもので、さすがにメディアの20世紀に活躍した世代ならではの出版物といえるであろう。しかも、この本は、当初の予定からすれば、はからずも未完のまま世に出される結果となったという意味でもなかなか特徴的だ。というのも、本書に紹介された部分の続編となるべきインタヴューの録音が予定されていたちょうどその日、1963年1月30日、プーランクは急逝してしまったからである。
余談であるが、歴史にIFはご法度ながら、彼があと十年長生きをしていたら、と考えるとなかなか興味深いものがある。「喜びの島」を初演したスペインの名ピアニスト、リカルド・ヴィニエスの愛弟子で、十分ソリストとしてやっていけるだけの腕前の持ち主であったプーランクは、生前多くのラジオ番組に出演し、自作自演はもとより、コンビを組んでいたバリトン、ピエール・ベルナックの歌曲伴奏を行うなど、マス・メディアに向けて積極的な活動を行っていたからである。今世紀後半これらの媒体技術の発展はめざましかっただけに、彼があと十年長生きしていたら、もっと鮮明なステレオ録音、あるいはもっと美しい貴重な映像史料が残されたことだろうと、これは容易に想像されるところである。その意味では、彼の早過ぎる死は、我々のような後世に生きる世代にとっても、非常に残念なことであると言わざるをえない。
さて、対談集というスタイルは、話者の肉声に非常に近いものがあり、話し手からストレートに語りかけられるような心持ちがする。歴史家がよく言う、いわゆる「一次史料」にきわめて近い、という感じだろうか。プーランク独特の話運びから、彼の眼を通した友人たち(先述のベルナックはもとより、ラヴェルやストラヴィンスキー、ファリャなどの音楽家、あるいは彼に多くの霊感を与えた多くの詩人たち)の姿が浮き彫りにされてくる。読んでいる者は、自然と対話のリズムの中に引き込まれ、話し手の感受性に直に触れるような感覚を覚える。
加えて、この本の「まえがき」には、インタヴュアーであった編者による心あたたまる弔辞が掲載されている。ノワゼーにおける最晩年のプーランクの姿が、実にいきいきと、しかも愛情のこもった眼差しで活写されていて、これだけでひとつの佳品を形成していると言って差し支えない。これを読む者は誰しも、眼前に在りし日のプーランクの愛すべき姿を認めることであろう。
本書の内容については、ここでいちいち詳しく紹介することは避けようと思うが、少しだけ私の読後感を付け加えることをご容赦願いたい。
この本を通じて非常に印象深く感じたことは、文中に引用されたオネゲルの言葉を借りるならば、プーランクが生涯を通じて常に「自分自身でありつづけた」ということである。それも、自然体で。これは、しかしあの時代にあっては(否、混迷をきわめる現代においてもそうだろうけれど…)、相当困難なことではなかっただろうか。
自分自身でありつづける、ということは、簡単なようでいて、そんなに易しいことではない。そもそも「自分らしさ」とはどういうものなのか、「自己を実現する」ということはどういうことなのか。凡庸な私などは、昨日に続く今日を漫然と生きてしまっているために、人間歴三十余年にもなろうというのに、今もってさっぱり明快な答えが見つからない。労働という名の繁雑さの中に身を置いて、自己を埋没させることを常とする者のひがみなのか、時々ふとした瞬間に「自分が失われる」ような恐怖感にとらわれ、身震いがしてしまう(皆が皆そうなのか、それはわかりかねるが、少なくとも私はそう感じる)。しかし、では「失われる自己」とはいったいどんな存在なのか、私自身は判然としないのであるが…。
話を元に戻そう。プーランクという人の不思議さは、強烈な自我というものをさほど前面に押し出していた形跡もないのに、それでいて終始一貫、彼自身のスタイルなのだ。作品も、また彼自身の生き方も。好き嫌いははっきりしていたが、しかし強烈なエゴでもって他人と衝突する、などということは、彼の流儀から最も遠いところにあった。まして、彼に対して「信念を貫き通した人」であるとか、「不屈の精神の持ち主」であるとかいった尊称を与えるのは、どうも違和感がある。
しかし、オネゲルが言うように、プーランクが「自分自身でありつづけた」ことは間違いのないことであるし、それを例証することは案外たやすい。
例えば、彼の作品のスタイルについて見てみれば、一目瞭然である。彼独特のスタイルはごく若い頃からしっかり確立されていたし、しかも死ぬまで保たれていた。青年時代のごく一部の作品に、表現主義的傾向の強い「他人の音楽の影響」が認められるが、ほとんど例外的なことであって、一生を通して作品を通覧しても、作風の「ドラスティックな変化」はさほど見られない。考えてみれば、これは稀有なことだ。先程名前が出たドビュッシーにしても、年代とともに作風は明らかに変遷を遂げており、プーランクのケースがきわめて驚異的なことであったことはすぐわかる。
具体的な例を挙げてみよう。彼の三曲のノヴレット、第3番と前の二曲とは全く作曲年代が違っている(ほとんど30年の開きがある)。にもかかわらず、全く違和感なく三曲でひとつの曲集を形成しているのだ。しかも、第3番の場合、ファリャの「恋は魔術師」の旋律をもとに作られたものであるが、スペイン風なところは微塵もなく、全くプーランクそのものなのである。
もうひとつ、注目しておきたいことがある。プーランクについてしばしば語られることでもあり、また彼自身もあらゆる場面で断言していた重要なポイント(であったに相違ない、少なくとも彼自身にとっては…)として、彼が生粋のパリジャンで、しかも骨の髄までフランス人だったことを挙げておこう。
こういうことは珍しいことでも何でもない。現に、「生まれも育ちも根っからの江戸っ子」であるとか、「この前の戦(いくさ)といえば応仁の乱」などと言ってのける人は多いし、そういうところに一種のアイデンティティを見出す人が存在したとしても、それはそれで微笑ましいことだ。もっとも、江戸っ子とパリジャンでは、質的に相当異なるような気もするが。
ただ、20世紀も終ろうという現代において、今世紀に生きた作曲家のこうした意識について思いをめぐらしたとき、ふと、歴史の大きなうねりの中で、文化というものを作り上げた人の根底に存在する一種の帰属意識をどう捉えたらよいのだろう、などとつまらぬことを考えてしまう。あるいは、「今更何を…」と我ながら呆れつつ、「民族」だの「国家」だのといった空疎な術語を思い浮かべてしまう。
そういえば、プーランクという人は、二度の大戦に二度とも従軍しているし、本書の中でも触れているように、ドイツ軍の占領下にあって、「愛するパリ」を離れようとはしなかったし、「占領とは何かを全く知らない」ことは「幸いなこと」だとも漏らしている。
彼は、自身の作品と現実に自分の身の上に起こったこととを関連づけて考えたことはなかったらしいし、作品を見ていても、それはなるほどそうだろうと私自身納得もしているのだが、それを承知であえて言いたい。第二次大戦中に書かれた「メランコリー」に、あの時代特有の気分が反映されている、と。それとも、これは私の色眼鏡であろうか。
世界がどんどん小さくなってきた今日、インターネットが繰り広げる世界は、すでに「民族」や「国家」といった枠組みを希薄化しつつある。その一方で、ベルリンの壁が崩れて十年、欧州で起こっているダイナミックな変化と深刻な民族紛争を見るにつけ、古くて新しいこうした問題の根の深さを痛感する。
そういえば、今世紀もそろそろ幕を閉じようとしているが、先行き不透明なこの世の中、人はいったい何を信じて生きていけばいいのか、時代の大きな転換期にいかに歴史と関わりを持てばいいのか。どうやら、こんな漠然とした不安をそのまま次の世紀に持ち越してしまいそうである。リストラと倒産の嵐吹く最近の日本では、しがない月給とりにとっても、かつての「お気楽な」時代ではなくなっている。老後に不安を抱え、出口のない不況と戦いながら、右肩上がりであることはもはやありえない社会にあって、どうやって自分自身の道を切り拓くのか。そして、どこに安息の地を見出したらよいのか。
我々と同じ世紀に生きたこのパリの作曲家は、ニコニコと笑いながら、サティやシャブリエと同じようにストラヴィンスキーやウェーベルンを愛聴しつつ、ちゃっかり自分のスタイルと居場所を見つけていた。時代がどんなに困難を極めようとも、ひたすら笑うことを好み、人生を愛したこの人は、間違いなく大金持ちの道楽息子ではあったけれど、自分自身のあるべき姿と身の置き所を認識していたという点では、人生の達人でもあったわけだ。そんなプーランクが、少し羨ましく感じたりする今日この頃である。
(2000年1月 記)