【マスタークラス受講中-大変緊張しました!】

皆さまは、マスタークラスに参加されたご経験はおありですか。私自身は、受講者としても聴講者としても、それぞれ何度も参加した経験があります。マスタークラスとプライベート・レッスン、どこがどう違うの?という話になったとき、もちろんケースによってはその境目が分かりにくいこともありますが、両者にはそれぞれの特長があるように私自身は感じています。そして、どちらもとても有用だと感じています。

以下は、私が感じるそれぞれの特長ですね。もちろん、ケース・バイ・ケースですが…。

◎マスタークラスの特長

  • 受講者のみならず、聴講者も一体となって、学びを共有できる感覚がある
  • 受講者の特性等に応じて、変化をつけた演出が可能になる
  • 受講者は、聴講者の前で演奏をし、かつ、指導を受けるので、精神的に鍛えられる
  • ある程度仕上がった状態での受講が前提となるため、演奏するための技法の教育(いわゆる how to の部分)のみならず、より高次の感性や解釈(いわゆる what の部分)等に関する教育メニューを展開することが可能
  • 聴講者は、より客観的に、他人が受けるレッスンを観察する機会を得る

◎プライベートレッスンの特長

  • 受講者のそのときの準備状況に応じた個別具体的な指導が受けられる
  • 他人の目に晒されないため受講者は心を開いてレッスンに臨みやすい(もちろん教師と受講者との関係性に依拠するところが大ですが)
  • 演奏に必要な身体技能等、いわゆる表現を拘束してしまう技術的ポイントに関する指導により適した方法である
  • オーダーメイドな教育メニューの展開が可能

さてさて。

上述の特長を列挙したところで、最近の私の感想を、思うまま述べてみたいと思います。

私個人としては、実は、マスタークラスが大好きなのです。つい最近も、自ら受講者の一人になりましたが、何といっても、聴講者も含めて、厳しい目と耳に晒されるその感覚が、怖いけれども、その緊張感がたまらなく好きだったりしますね。あらら…ちょっと危険な発言でしたか。ときに、指導者の先生から飛んで来る質問やダメ出しに、タジタジになり、しどろもどろになり、超恥ずかしかったりする瞬間もあったりするのですが、それゆえに準備も周到になりますし、また緊張感ゆえに得られるものもとても大きいと感じています。つい先日も、「多分…は質問されるだろうな…」という予想のもとに、直前には、参考図書を片っ端から読み漁り、楽譜の校訂記録に目を通し、自分の演奏についてもある程度語れるぐらいにいろいろ予習して臨みましたが、それでもズダボロ状態を見事に晒してしまっておりました。

これ、個人的には、メンタル面を鍛えるのにとてもいい方法だな、と感じています。つまり、「恥ずかしさの中に入っていけるタフさ」を磨くのにうってつけなのです。

ですが、万人におすすめできる方法かどうか、と問われると、厳しいかもしれませんね。人前でダメ出しされている自分に耐えられるかどうか、これは個人差のある領域かもしれません。メンタル・トレーニングの観点からすると、自己肯定感と自己を客観視する力が、適度な水準とバランスに達していない人には、こういうマスタークラス方式はおすすめできないかもしれません。逆に、一定程度、自己肯定感と自己を客観視する力を養うためには、こういう鍛錬の場はあった方がいいとも言えますね。

それから。

これは、いろいろな価値観がありそうだとは思うのですが、私自身とても重要だと感じていることを申しますね。実は、ピアノのレッスンの中には、「表現そのものに関する教育」なのか、それとも「表現を拘束する身体機能を向上させるための教育」なのか、という二つの観点がありそうだ、ということです。マスタークラスでは、後者についてももちろん言及されることはありますが、それ以上に前者に重きが置かれやすい、ということなのですね。

確かに、個別具体的な奏法に関するコツを明確に伝授されると、受講者は、しっかりレッスンをしていただいたような満足感を得ることが多いです。個別具体的な how to ももちろん重要だと思います。ただ、それは、結局のところ「身体教育」にとどまっているとも言えます。表現そのもの以前に、表現を阻害する身体機能に関する指導なのであって、表現そのものについてのディスカッションにまでは至っていない、ということでもあるのですよね。そう、手段を問うのか、その先にある表現そのものを問うのか、ということです。

マスタークラスの場合は、もちろん受講生の習熟度にもよるのでしょうが(私なんぞはお恥ずかしいレベルですが)、そもそも人前で演奏会で弾けるようなレベルにまで仕上がった段階で受講することが前提ですから、技能教育以上に、その一歩先の感性や表現を問う教育を展開しやすいのではないか、と思います。もちろん、話はより抽象的になることもあり、場合によっては、「言葉で説明するのは難しいようなこと」が扱われることもあるかもしれません。でも、一流の先生から教えていただく機会があるときに、「脱力の方法なのか、表現のあり方の話なのか、どちらを教えていただきたいでしょうか?」ということを考えたとき、せっかくならば表現の話も教えていただきたいですよね。

そんなこんなを考えますと、良質なマスタークラスの機会こそ、とても貴重ではないかな、と思う今日この頃なのでした。