3月のはじめ、欧州はまだ風の冷たい季節でしたが、ハンブルクで行われた国際音楽講習会にはじめて参加いたしました。

この講習会、ドイツの国立音楽大学教授を中心とする一流の教授陣による個人レッスンの他、各種セミナーや修了演奏会も開催されるというまさに充実の内容、既に長くハンブルクで続けられてきた伝統ある会ということでしたので、自らの音楽的な視野を広げるために、思い切って参加することを決意しました。欧州の音楽教育の空気に触れることで、新しい気づきが得られるかもしれない、と大いに期待していたのですが、参加してみた正直な感想として、講習期間中はもちろんのこと、準備の過程も含めて、予想をはるかに上回る学びの機会になったと思います。なかには、当初全く予想していなかった大きな収穫 ― 声楽レッスンへの伴奏参加 ― もありました。今日は、そんな予想外の展開となった声楽レッスンの準備にまつわるお話。

もともと、こちらの講習会には、ピアノ演奏法(ソロ)でエントリーしておりました。どの受講科目であっても、個人レッスンが4時間程度予定されていると聞いていましたので、昨年来ずっと弾き続けてきたブラームス( Op.117, Op.118 )およびシューベルト( Op.78, D 894 )から抜粋して、4回分のピアノ・ソロのレッスン曲を用意しておりました。それだけでもかなりの準備が必要で、年末年始は講習会に向けての準備に追われる日々が続きました。

それとは別に、年明け早々、事務局の方から「声楽の方がいらっしゃるので、その伴奏のお手伝いをお願いできないか」というお話をいただきました。「これはとてもいい勉強の機会になりそう、こういうお声がかかったときは、やってみるのが吉」と思った私は、何のためらいもなくこのお話をお引き受けすることにしたのです。これまで伴奏法の分野では、室内楽を中心に学んでおりましたので、この機会に声楽の伴奏法についても、経験を積めるとはありがたいことだなぁ、と気分よく過ごしていたのも束の間…。

1月末頃になって、声楽の方から受講予定曲をうかがってからというもの、一気に状況は切羽詰まったものになっていきました。ソロの準備もさることながら、それ以上に声楽の伴奏のことで毎日頭がいっぱいになってしまったのです。なにせ準備期間はたったの1ヶ月、とにかく準備万端整えなくてはならない、声楽の方の足を引っ張るわけにもいかないし…。朝から晩まで猛勉強を余儀なくされることになり、文字通り必死の形相でした。

連絡を受けた受講予定曲は、以下の4曲。オペラ・ブッファが2曲と、宗教曲にドイツ歌曲というまさに盛り沢山(!)のメニュー。そりゃそうですよね、声楽の方にしても、この講習会で出来る限り多くのことを学びたいと思っていらっしゃるわけですから、意欲的なプログラムになるのは当たり前のことです。こちらも勉強になるわけだし、こんなありがたい話はないのですが、それにしても時間が足りるだろうか…。

・チマローザ「秘密の結婚」から パオリーノのレスタティーヴォとアリア
・ロッシーニ「イタリアのトルコ人」から ドン・ナルチーゾのレスタティーヴォとアリア
・バッハ「クリスマス・オラトリオ」から 福音史家とテノールのレスタティーヴォとアリア
・シューマン「リーダークライス」から「春の夜」

バッハの宗教曲とシューマンの歌曲は、学生時代から愛聴していた曲でしたが、イタリアもの2曲については、実は普段あまりなじみのない分野でしたから、さあ大変。音源やリブレットの確認(イタリア語の確認がこれまた…)、ヴォーカル・スコアの読み込みだけでも、あっという間に時間は経過してしまう…間に合うかしら…。それでなくても2月は28日までしかないのに。特に、レスタティーヴォの伴奏、これは慣れないとタイミングを合わせるのが大変難しく、持っているCDや動画に合わせてみたりしながら、試行錯誤する日々が続きました。ちなみに、渡欧中、ハンブルクとウィーンで、それぞれ「フィガロの結婚」と「ドン・ジョヴァンニ」を鑑賞しましたが、これまでになくレスタティーヴォの鍵盤奏者の演奏を必死に聴いてしまうことになり、その絶妙なタイミングにただただ感激しておりました。

準備は、それだけではありません。比較的なじみのドイツ歌曲の伴奏一つとっても、検討しなければならないことは山のようにありました(準備時の奮闘記はこちら)。しかも、歌曲の伴奏経験者から、「その場で半音上げて移調、ということもあるわよ」というアドバイスをいただいたことから、上下3度程度の移調を想定した練習も行うことに。移調練習も、苦手意識はありませんが、それでも私の場合一発で出来るというものでもありませんから、それなりに時間をかけました。

そして、今回最も時間を割いたのが、バッハのアリアの伴奏準備。これも一筋縄ではいかないような技術が必要とされていました。オーボエと通奏低音によるアリアの3声の伴奏は、なんと vivace の指示。弾くだけで精一杯。子供の頃からバッハ大好き人間で、ポリフォニーとなると俄然ハッスルするタイプだった私ですが、それでも正直「ベートーヴェンの Op.101 の終楽章の方が楽そうじゃない…」と思えるほどの難しさ。さらに伴奏部分と独唱部分もそれぞれ独立した声部になっているので、最終的に伴奏部分は暗譜して、歌詞も全て覚えて、どこからでも入れるようにしておくためには相当の弾き込みが必要でした。多分、この2月、ソロ曲も含めて最も長く練習したのはバッハの伴奏だったと思います。

そんなこんなの渡欧前からのテンヤワンヤ、正直なところ毎日相当ボルテージが上がっておりましたが、それでも普段のピアノ・ソロ練習では味わえない苦労は何事にもかえがたいですね。実際には、声楽レッスンはあっという間ですし、かつ歌手の方への歌唱指導がレッスン時間の大半を占めますので、終わってみると「何だかあっけなかったなぁ」という思いも多少ありましたが、それでも、このジタバタの経験は私にとっては大変刺激的で、きっと大きな実りをもたらしてくれるのではないかな、と思っています。