ハンブルク市内にて ブラームスのオブジェ
<ハンブルク市内にて ブラームスのオブジェ>

ピアノよりも歌曲の話題が多くなってしまうのは、やはり学生の頃からの歌曲熱ゆえかもしれません。今回も、歌曲の話題ですが、どうぞおつきあいくださいませ。

既にお話した通り、今年の3月、渡欧してハンブルク国際音楽講習会に参加、当初予定していたピアノ・ソロの講習に加え、短い時間ではありましたが声楽の伴奏法も受講、さらには声楽レッスン時の伴奏も担当いたしました。このときの声楽伴奏にまつわる思い出は、私にとってかけがえのない貴重な経験になりました。思い出すことは多々あるのですが、今日は、レナーテ・ベーレ先生のレッスンに参加したときの話をご紹介したいと思います。

レナーテ・ベーレ先生といえば、かつて一世を風靡したドラマティコとして知られた名歌手。ウィーン国立歌劇場やメトロポリタン・オペラ、さらにはザルツブルク音楽祭でもご活躍で、ブリュンティルデ、レオノーレ、サロメ等を歌って来られたまさにプリマドンナ。また、ハンブルク国立音楽大学の声楽科の主任教授も歴任され、多くの歌手を育成された教育者としても有名です。そして、何と申しましても、今をときめくテノールの大スターであるダニエル・ベーレ氏のお母上でして、そのダニエル・ベーレ氏の声楽教育もなさったということですから、まさに世界を代表する大歌手にして大先生でいらっしゃいます。

レナーテ・ベーレ先生の公式サイトはこちらです → https://www.renatebehle.de/


Daniel Behle – Sängerportrait 2012 より ~ レナーテ先生もコメントされています

今回の講習会、多くのレッスンは会場となっていたブラームス・コンセルヴァトリウムで行われたのですが、先生方のご都合によっては違う場所でのレッスンになる場合もあり、レナーテ先生のレッスンは、なんとハンブルクのご自宅(!)で行われたのでした。お宅ということもあったのでしょう、最初お目にかかったときの印象は、気さくで親しみやすい雰囲気でした。とはいえ、そこは長年世界の檜舞台でプリマドンナをつとめられたお方、レッスンが始まった途端、あたりにヒロインのオーラが満ちあふれたのでありました。もうこのオーラを直接肌で感じることができただけでも、はるばるハンブルクまで出かけた甲斐があったと思えた瞬間でした。

もとより声楽のレッスンですから、受講されている歌手の方の声の出し方・身体の使い方についての指導が主にはなるのですが、レナーテ先生のレッスンの場合、とりわけ記憶に残っているのが、ドイツ語の発音・抑揚・リズムについて、メロディなしの状態で徹底的に指導なさっていたことでした。特に、言葉そのものに含まれる強弱・声色について、先生自ら何度も何度もお手本を示されていたときのご様子は、私の脳裏にも深く刻み込まれています。具体的には、レッスン曲である、シューマンの Frühlingsnacht Op.39-12(春の夜)冒頭の部分。

Über’m Garten durch die Lüfte

レナーテ先生が特に注意なさっていたのは、 Lüfte の発音・抑揚・リズム。譜例3小節目の二つの音の扱いでした。楽譜には特にアクセント等は記載されていませんが、ドイツ語の持つ強弱や微妙な声色の扱いは、歌うときにも当然ハッキリと表現されなければならないことを強調しておいででした。

レッスン曲(シューマン「春の夜」)
レッスン曲 シューマン「春の夜」(ペータース版・高声用・EP2383a)

日本語を母国語とする我々にとってのウィークポイントでもあるこの話、実は、レナーテ先生のお話をうかがいながら、ちょっと苦笑を禁じえなかった私でした。というのも、今井顕先生のレッスンで毎回毎回これでもか(!)と注意される「強拍と弱拍の扱い」に関する話だったからです。「強拍と弱拍」 ― 口で言うのは簡単なことです。今井先生から注意される度に、内心「はいはい、わかってはいるつもりなんですけれどね~」と思うわけですが、それでも毎回厳しく注意されてしまうのです。それほど身につけるのが大変な、それでいて、ごくごく基本的な表現技術だったりするのですね。こういったごく「当たり前のこと」を意識しなくても自然に表現できるようになるには、気が遠くなるほどの鍛錬が必要になる話なのであります。

結局のところ、音楽表現の基本の基本、そこに向き合って修練するしかないのかな。そう思いながら過ごしたレッスンは、あっという間の出来事ではありましたが、私にとっては本当に大切な大切な宝物のような時間になりました。

そうそう、レナーテ先生のレッスンで忘れられないことがもう一つ。それは先生のお宅のスタインウェイのすばらしかったこと。ハンブルクのB型ということでしたから、スタジオにあるものと同じ型式ですが、シリアル番号からすると、スタジオのものよりは幾分新しい楽器でした。とにかく、調律・整音・整調に至るまで、見事なまでに行き届いたメンテナンスがなされた、すばらしいコンディションのピアノだったのです。

帰り道、アテンドいただいた方に「ここのスタインウェイは本当にすばらしい状態だと思う」と感想を申し上げたら、「そりゃそうだよ、超一流のプロが使う楽器だもの」というある意味当たり前すぎる返答が…。そうか、そうよね、これほどの状態のピアノには滅多にお目にかかれないけれど、超一流の音楽の現場には超一流の楽器があるのは当たり前のこと。「これもまたレナーテ先生のありがたい教え」という思いを抱きながら、満ち足りた気分で宿所に帰ったのでした。