<ハイデルベルク「哲学の道」から対岸をのぞむ>(著者撮影)
<ハイデルベルク「哲学の道」から対岸をのぞむ>(著者撮影)

出来ることならお世話になりたくない救急車に、あろうことかこれまでに2度、お世話になってしまいました。最初は香港(!)で急性食中毒。このとき幸い症状は軽く、無事帰国することができました。2度目(国内では1度目)は2013年12月のことで、場所は神戸。仕事中に目測を誤ってガラス扉にぶつかり、ガラスを突き破ってしまったことにより、大腿部をはじめあちこちに挫傷・裂傷を作ってしまいました。入院19日、最初の1週間はベッド上安静という結構大きな怪我でした。仕事中の事故ですから、当然労働災害(休業災害)…いろいろな方にご迷惑をおかけしてしまいました。申し訳ございません。そして、支えて下さった方には、心から感謝しております。

ないにこしたことはないこういう事故、しかし、この経験は私にとって大変貴重な「学び」の機会でもありました。今にして思えば、この「怪我」こそ、私の人生の大きな「転機」だったとさえ感じます。今日は、そんな事故=怪我からの「学び」について、当時の経過とともに思うところを述べたいと思います。

それは、2013年12月9日の15時頃のこと。普段着着用ではありましたが、事情あって工事用ヘルメットをかぶっていた私は、つまずいて転んだかと思ったまさにその瞬間、耳元でガラスの割れる大音響に大層驚いたのでした。どうしてガラスが割れるの?どうしてガラスがここにあるの?もっと先だったのでは?え?なぜ?

そうです。私は、目測を誤ってガラス扉に激突して、突き破ってしまったのです。運悪く割れ残ったガラスの破片で、左足大腿部をはじめ、顏面・左手小指・腹部・右大腿部等、全身に怪我を負ったのでした。瞬く間にあたりは血の海、しかも、生まれてはじめて見る自分自身の大腿四頭筋、筋肉ってこんな色しているのね(案外きれいだと思いましたが)。

工事用ヘルメットをしていたため、頭部にガラスの破片が刺さることはありませんでしたが(幸いと解釈すべきなのでしょうが)、このヘルメットこそ、ガラスが割れる原因だった可能性が高いと今でも思っています。ヘルメットを着用したことのある方ならお分かりだと思いますが、ヘルメットというものは、自分の身体よりもかなり外側にまで張り出していますから、目測・身体感覚を誤りやすいのです。ヘルメットをかぶったときの方がよく頭をぶつける、というのもこのためです。この事故の場合、おそらくヘルメットのツバの部分(案外鋭利!)が先にガラス面に接触してひびが入り、その次の瞬間、私の身体は割れ行くガラスを浴びた、ということなのではないかと推測されるのです。

幸い、近くに関係者がいたので、すぐに救急車を呼んで下さいました。「このビルのとなりが病院なんだけれど、やはりここは救急車なわけね」と思っているうちに救急車が到着しました。私にはすぐに救急車が到着したように感じたのですが、あとで話を聞いたところ、周囲の人間は「なかなか救急車が到着しなくてハラハラした」ということだったのだそうです。ずっと意識はありましたが、怪我をしたときの感覚というのは、案外こういうものなのかもしれません。

さて、最初に感動したのは、この救急隊員のすばらしい対応ぶりでした。まず、周囲の人たちに、ガラスの破片を取り除くようにテキパキと指示しながら(応じて下さったみなさまには本当に感謝しております!)、私に対しても非常に明瞭な言葉遣いで声をかけて下さいました。「私の声が聞こえますか。かなり出血していますが、静脈部分だから心配はないですよ。かなりの痛みは感じるでしょうが、こういうとき、脳はさほど痛みは感じないものです。むしろ、落ち着いてから痛みが増幅することはあるかもしれないですが、そういうものだと思ってください」-これこそプロの仕事ってものだわ…。なんてすばらしいのだろう!!! ありがたいことだわ!!

救急車が到着してから、病院に搬送されるまでに20分は経過したでしょうか。慎重に周りのガラス片が取り除かれ、応急処置が施されたようでした。ストレッチャーに乗せられてこう告げられました。「これから●●病院に搬送します。形成外科が受け入れてくれるということですから」…何のことはない、ここのとなりの病院じゃないの…。ですから、日本が誇る救急車の乗り心地を確かめる時間はほとんどありませんでした。車内設備とか、もうちょっと見ておきたかったかも…。

1分ほどで救急処置室に運ばれましたが、最初の1時間半はひたすら傷の洗浄が行われました。ガラスの破片が体内に残らないようにということで、X線撮影による確認作業→洗浄作業→X線撮影による確認作業→洗浄作業…が繰り返されました。目の前で繰り広げられる光景は、見るもの聞くもの全てがはじめてのことばかりで、ただただ新鮮な感動を覚えました。と同時に、私の怪我のために、てきぱきと働く方々への感謝の念がふつふつとわいてきました。私はというと、まさに「なされるがまま」、「まな板の上の鯉状態」でした。全てを信頼して全てを委ねるこの感覚、普段の自立運転モード・戦闘モードの自分とは全く異なる感覚でした。心理カウンセラーの先生がよくおっしゃっていた「サレンダー」という状態とはこれかな、等々、そんなことを思いながら、妙に穏やかな気持ちで処置台のうえに横たわっていたのです。洗浄終了後は、何人もの先生方が文字通り「寄ってたかって」傷口の縫合を始めました。時折血圧が下がっていたようで、「朦朧としませんか?」と聞かれたりもしたのですが、私個人はいたって意識ははっきりしていて、「輸液だけで輸血はされていないみたいね~」とか、そんなことをつらつら考えておりました。

ふいに「では、次に顏と左手の小指を縫いますよ」と言われ、それまでの穏やかな気持ちが一瞬で消え去り、急に現実に引き戻されたような気分に陥りました。えっ?顏も?それに左小指って、まさかピアノ弾けなくなるってこと?! - そのときはじめて自分がしでかしてしまった事故の大きさを思い知ったのでした。「左手の小指は腱が結構切れちゃっているからね、あんまりいい状態じゃないねぇ。なんとか努力してみるけど」 - 傷口は残っても構わないから、せめてピアノが弾ける程度に動けるようにしてください、お願い!!!

ほどなく「ああ、腱が全部切れていたわけではなかったようだ、3分の1ほどはつながっているから、多少違和感はあっても、多分元通りに動くようになるよ、よかったねぇ~」という医師の声がかかり、さらに「顏は形成部長さんが縫って下さっているから大丈夫ですよ」という看護師さんの声も聞こえてきました。嗚呼!「捨てる神あれば拾う神あり」とはまさにこのことだわ。地獄に突き落とされたかと思った次の瞬間に見えた光明でした。

全ての処置が終わったのが18時、さらにいろいろあって病室に入ったのは20時頃のことでした。循環器病棟ではなかったので、スマートフォンでの通信が許されたのは本当に不幸中の幸い、ようやく仲間たちに自分の状況を知らせることができました。便利な時代になったものです。

私のピアノ仲間にはお医者さんが多かったこともあり(循環器以外はほぼ全部揃うのでは…という状況ですから)、今なされている処方の意味を理解するうえで、いただいた多くのメッセージは本当に有益なものばかりでした。事実、自分では大した怪我とは思っていなかったのですが、「数日微熱が続きベッド上安静(=抗生剤点滴)が1週間」という情報を伝えたところ、「それってかなりの怪我ってことですよ」という医者の友人のメッセージに、はじめてことの重大さを知る、という具合でしたから。それにしても、持つべきものは友人です。もう一度ピアノを弾くことができるのであれば、友人たちには感謝の思いを絶対伝えたい、だから絶対もう一度ピアノの前に座れるようになりたい!

こうして、19日にわたる入院生活が始まりました。最初のうちこそ、仕事関係のメールのやりとりに追われましたが、そのうちに周囲から口々に「やっておくから、仕事のことは忘れて今はゆっくり治してね!」と言われるようになり、みるみるうちに暇になってしまいました。そう、あんなに忙しかったはずなのに、私がいなくたってとりあえず仕事は回るのです(後始末は大変でしたがね)。そんなものです。そして、天皇誕生日を含む3連休ともなれば、仕事のメールも来ないし、お見舞いのお客さまもあまりいらっしゃらない…。暇だ!恐ろしく暇だわ…。元気だったときは、休日の到来があんなに待ち遠しかったのに、今や休日を持て余してしまっているのです。どうしたらいいの、この時間。本当にゆっくりと時間が進んでいく。あたふたと何かに追われて過ごす普段の生活とは比べものにならないほど、ゆったりと流れる時間感覚の不思議さ。

当時私は企業法務の担当をして既に数年が経過、まさしく「法務の鬼」状態でした。自慢ではないですが(←いえ自慢です!)、訴訟では負けたことがないですし、企業法務で扱うあらゆるタイプの事案を通じて、私なりの経験値を積み重ねていたという自負がありました。当時の私のモットーは、「臨床法務こそ企業法務の生命線、現場で要請されていることは単なる法的な評価に止まらないし、刻一刻の判断が経営に直結する」というものでした。言うまでもなく、契約書の雛形作りよりも、気合いを必要とするトラブル対応の方が得意という典型的な「武闘派女子」でした。当時本気で「法的トラブル対応は天職かもしれない」とも思っていたのです。

しかし、不思議なことに、時間があるからと家から持ってきてもらった法律の本は、なぜか一向に読み進まなかったのです。目の前に「現場・現実・現物」がないとどうも実感がわかない、ということもあったのですが、それ以上に私の心をとらえて離さなかったのは、ピアノの音色だったのでした。もうこれは誘惑のようなもの。横になっていると、耳に入ってくるBGMは、なぜかピアノ曲ばかり。「エステ荘の噴水」かぁ〜、この曲が弾ける程度になるまで左手の小指は回復できるかな。フォーレの夜想曲4番って、本当に心に染み入るように響くのね。退院したら絶対この曲の譜読みをしよう!絶対に弾けるようになるまでリハビリがんばる!

この怪我、これは何かの警告なのか、はたまた啓示なのか?法律の仕事は天職かもと思っていたけれど、天職に見えてそうではなかったのかもしれない。私は、本当に法律の仕事が好きなのか?あるいは、どうしようもないプライベートの人間関係も含め、人生を見直す時期にさしかかっているのかも。私に人生を考え直す機会を与えるために、怪我という試練を与えたのか。松下幸之助さんが生前「この世に起こることは全て必然で必要、そしてベストのタイミングで起こる」とおっしゃったのだそうだが、まさにそういうことなのだろうか。

入院生活で分かったことは、法律よりもピアノの方が好きだったのだ、ということでした。生命の危機が訪れたとき、それでも欲するものこそ本当に好きなもの。それは私にとってはピアノだった、ということでした。左足も左手も自由に動かない状況にあって、もう一度許されるならピアノが弾きたい、そればかり考えていました。それまで、「何事も中途半端で大成しない、何一つ突き抜けた才能もない」それが私の最大の悩みでした。ピアノについても、突き抜けた才能はなさそうだ、と思って諦めていたところもありました。でも、確かにピアノが本当に好きなのだ…。事実、ピアノを弾き始めてから、ほとんどブランクなくここまで続けて来られたではないか…。

そんな思いにふけることの多かった入院生活、最初の1週間こそベッド上に釘づけでしたが、それから後は、車椅子→両松葉杖→片松葉杖→松葉杖なし、という具合にみるみるうちにV字回復していきました。人間の身体には、強力な自然治癒力が備わっていることを実感できた貴重な経験でした。とともに、自分がこうやって「生かされている」ということに、自然と感謝の念がわいてくるのを感じていました。医療関係者の皆さまの種々のサポートが本当にありがたく、毎日ささやかな幸福を沢山味わっておりました。

年末12月27日に退院したときには、左足はまだかなり不自由ながら、松葉杖を借りることなく退院(←借りてしまうと京都から神戸まで返しに行くのも大変ですし)、年末年始を自宅で過ごすことになったのは、本当にありがたいことでした。

年明けから、京都の病院に移り、通院によるリハビリテーション訓練が始まりました。「これは高橋大輔選手もされたリハビリメニューですからね~!がんばりましょうね~!」と理学療法士がニコニコしながら指示するのは、スクワット20分コース(←20回ではないですよ!)。「私4回転ジャンプ飛ぶわけではないのだけれど」と思いながらも、過酷な高橋大輔メニューに励んだ結果、ほぼ2ヶ月で元の運動能力を取り戻すことができました。おかげさまで、拘縮といった後遺症を残すこともなく、今は何の違和感もなく身体を動かすことができます。

幸い顔の傷も、形成外科の名医による縫合のおかげで、「言われなければ気づかない」状態になりましたし(ありがとうございます!)、半年後には、ハイデルベルクの「哲学の道」も(大学のあるところにはもれなく「哲学の道」があるものですね!)、ニュルンベルクのカイザーブルクも、何の苦もなく歩いて散策することができるまでになりました。

確かにこの怪我の後、私の中の「何か」が変わりました。この後、私は、いわゆる「デッドゾーン」の壁(=義務や役割に縛られ活力や喜びを失ってしまうバーンアウト状態)にぶち当たることになるのですが、それでもこの怪我と怪我からの回復過程で得た経験が、私を力強く支えてくれたと思っています。その意味で、この怪我は、私の人生にとって貴重な財産になっていると思えるのです。