<打鍵時の身体の動き>
<どのように身体を動かせば美しい音が出るのでしょうか>

「VR技術によって芸術のあり方も変化していくでしょう」「視線の動きでキーボードやロボットを操作したり、ピアノを演奏したりすることが可能」 ― 昨年末の「日経ビジネス」(※)に掲載されていたこんな記事に思わず目が止まりました。VR(Virtual Reality ― 仮想現実と訳されることも多い 人工現実感のこと)の技術を使うことで、手が自由に動かない人でも目の動きでピアノが弾けるようになるというのです!

巷では、一昨年(2016年)がVR元年と称されていました。ゲーム・アミューズメントの分野で爆発的なブームとなっていたVRトレンドは、またたく間に産業分野にも広がりを見せ、今やVR(仮想現実)やAR(拡張現実)のテクノロジーは、まさに秒速で進化を遂げているようです。冒頭のコメントは、VR界のジャンヌ・ダルクの異名を持つ若手女性社長のものですが、いやはや、なかなか威勢のいいご発言。

もちろん「ピアノが弾けるってどのレベルなのかしら? ― 鍵盤のE(ミ)の音を見たらその単音が鳴らせるというレベル言っているのかしら?それとも、音色コントロールや楽曲解釈を含む音楽的かつ自発的表現ができるレベルを言うのかしら?」とか、「鍵盤上に視線を合わせるだけでリストの超絶技巧練習曲が鳴らせるってこと? ― これはさすがに目を動かすこと自体難しくないかしら?」とか、「いやいや、予め誰かの演奏を自動演奏のごとく再生できる機能と楽譜データをリンクさせておき、その楽譜を見ている視線の動きに合わせて演奏がなされることではないのか?(おそらくこれはすぐ出来るのでは?)」とかいった具合に、個人的には突っ込みどころ満載と感じましたが、しかし、その発想の根底には、傷病や高齢化で手が自由に動かなくても、楽器を操作する楽しみを味わうことができるような技術を提供したい、という使命感のようなものがあるわけですから、その志自体はとてもすばらしいと思います。

では、これからのVR/AR技術の発達が、音楽演奏の分野でどのような展開を見せるようになるのでしょうか。これらを予測することは、甚だ難しいと思います。「予測が難しい変化の時代」と言われて久しい昨今、私のごとき文系学部出身の素人がVR/AR技術のトレンド予測など出来ようはずもないのですが、でも、「予測が難しい」からこそ「何でもあり」という気がいたしますので、以下ちょっと楽しい放談をさせていただこうかなと思う次第です。

VR/AR技術というと、例えば手の動きに合わせてオーケストラ演奏の映像が流れるような仮想「なりきり指揮者体験ブース」等が思い浮かぶかもしれませんが(確かそういう施設どこかにありましたね)、私が注目しているのは、目下「触力覚インターフェースの動向」、それも「力学的なフィードバックを得られるような技術の動向」です。え?それ何ですか?って?

かいつまんで申しますと、スポーツや医療の分野において開発されつつあるという「熟練者の動きを自分の動作のように体感させる技術の動向」のことです。既に、スポーツの世界では、熟練者の動作映像に合わせて身体に刺激を提示することで、自分自身がその動作を行ったように感じられる技術開発の実績があるようです。その詳細につきましてはここでは割愛いたしますが、要するに、これまで「コツ」という形で真似するのが難しいとされていた熟練者の身体知(筋肉の収縮や関節等の感覚といった体性感覚や、皮膚感覚等)を、VR/ARの技術を使って獲得しようというのです。

とすると、例えばですが、「名人とされたピアニストの打鍵時の身体の動きを自分でも体験できる技術」があったら面白いと思うのですが、いかがでしょう。もちろん、そういった名人ピアニストの打鍵時の各種身体データをインプットする前処理が必要ではありますが。「あなたもこれを使えば名ピアニスト●●●の鋼鉄のタッチを体感できます!」という技術が今後登場するかもしれませんね。

おそらく、こうしている間にもいろいろな研究成果がどこかで蓄積されていることでしょう。残念ながら、私自身、詳細な研究動向についてはキャッチアップできていないところもあるのですが、もしこの分野に詳しい方がいらっしゃいましたら、ぜひご教示いただきたければ幸いです。

こう考えてくると、「VR/ARでピアノ演奏なんてあり得ないわ」と切って捨てる話でもなさそうですね。そもそも、VR/ARの技術を考えるうえで重要なポイントが、「これは自分である」という「自己所有感」と、「これは自分が動かしている」という「自己主体感」だとされていることは非常に興味深い話です。そして、まさしくこうした技術は、先般言及したAIの話もそうですが、「人間とは何か、人間らしいとはどういうことか」という根源的な問いと不可分であるわけで、だからこそ、これらの技術の今後の動向から目が離せないなと思うのであります。

※ 日経BP社「日経ビジネス」(2017年12月11日号 №1920) 29ページ (特集「2018年大予測」記事)